取材ノート

「使わなければ忘れる」


 取材の途中に「あの…、ウリマルがよくわからないので、日本語でしゃべってもらえますか」と言われることがたびたびある。

 「民族教育を受けてなかったのか。失礼なことをしたな」と、あわてて日本語で同じことを繰り返す。

 しかし、出身校をたずねてみると、そのほとんどが朝鮮学校卒業生なのだ。編入生もいるが、初級部から12年間民族教育を受けた同胞もいる。50代のある同胞は、「中級部までしかウリハッキョに通っていないからね。使わなければ忘れるよ」と語っていた。

 その言葉を聞いてある出来事を思い出した。

 記者は初級部6年生のときウリハッキョに編入した。両親がウリマルで会話していたので、知らぬ間にそれがインプットされていたのか、ウリマルの習得は早く、2学期には普通に会話ができるようになっていた。

 でも、3学期がスタートした途端、口をついて出るのは日本語ばかり。冬休みの間、両親と日本語で会話していたためだ。

 同級生から、「せっかく覚えたのに、使わなければどんどん忘れていくよ」と指摘された。瞬間、心が引きしまったのを覚えている。

 使わなければ忘れる――。確かにそうだ。今思えば英語もそう、物理で習った○○法則もそう、歌も、歌わなければ忘れる。

 12年間民族教育を受けてきたにもかかわらず、家庭でウリマルを使わず、そのうえ同胞より日本人とのつきあいが多いとなれば、「忘れてしまう」という人が出てきても不思議ではない。

 しかし、言葉は間違いなく民族を象徴するものだ。

 異国に生きながらつねに祖国と関わり、自分が朝鮮民族であることを意識しながら人生をまっとうすることは、自分自身にその方法や手段を見いだす目的意識性がなければできない、と実感する。記者と同じ3、4世にとってはとくに重要な課題だ。(李賢順記者)

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