ウリマルとトンポ社会―民族教育の場で 4
一緒に成長楽しいな
「先生」は朝鮮学校に通う娘
怒った時に出る1世の言葉
ルーツを伝える 川崎市内で夫とともに焼肉店を営む盧正姫さん(44)。長男、次男は手を離れたが、末っ子の致元くんは南武朝鮮初級学校に通う6年生。まだまだやんちゃ盛りだ。 ある日、ゲームに熱中する致元くんに「宿題やった?」と聞くと、中途半端な返事が返ってきた。人の質問にきちんと答えなかったり、自分がしたことを人のせいにした時に出る盧さんのとどめの一言は、「タシハンボンハミョン オプセボリンダ!」(もう一度したら消してしまうよ)。朝鮮では子供を叱る時によく使う言葉で、日本語にはない独特の表現。かなりきつい言葉だ。盧さんはオモニにこの言葉でよくしかられた。 「『子供を消してしまう』という意味だから、いい言葉ではない。しかもオモニにこう言ってしかられるのが大嫌いだった。でも、怒りが頂点に達するとこの言葉が出てしまうんです」と盧さんは話す。 オモニ(お母さん)、アボジ(お父さん)などの呼称や簡単なあいさつ、単語がウリマルで行き交う光景は、同胞の家庭によく見られる。しかし、味のある、昔ながらの表現はなかなか探せない。それを身につけた1世が減っているからだ。1世に育てられた盧さんだからこそ、自然に口に出る。 盧さんはこの言葉を口にするたび、オモニの人生に思いをはせる。44歳の時に夫を亡くし、プラスチック工場を切り盛りするなど、女手一つで3人の子供を育ててきた。それだけに、性格も言葉もきつくならざるを得なかった、と思っている。解放後、同胞社会を底辺で支えてきた「1世のオモニ」の姿である。 「カッタオゲッスムニダ」(行ってきます)、「タニョウァッスムニダ」(帰ってきました)。長男、次男が登下校時に必ず口にしたウリマルを末っ子の致元くんはなかなか言わない。ある日、長男の致官くんが盧さんに言った。「オモニ、ちゃんと言わせなきゃだめだよ」。 その言葉を聞いた時、嬉しかったという盧さん。 「ウリマルが残れば、1世の人生や思いが語り継がれていく気がする」からだ。 寝言でウリマル 「ソンセンニム(先生)…」 京都市右京区在住の李京順(31)、千治鎬さん(36)夫婦は、長女の仁玉ちゃん(9)がウリマルで寝言を言った時の驚きを今でも忘れない。その瞬間、2人で顔を見合わせ、思わず吹き出してしまった。 3世の千さん夫婦は、日本の教育を受けたことからウリマルを自由に話せない。千さんの場合、完全に日本語一色の家庭で育った。両親も「お父さん、お母さん」と呼んだ。 そんな2人が築いた家庭にウリマルが増え始めたのは、長女が京都第2朝鮮初級学校に通ってからだ。 「朝鮮人帰れ!」 日本の小学校に通っていた頃、李さんは同級生にこんなば声を浴びせられたことがある。 担任の教員も見てみぬふりだった。でも一番悔しかったのは、自分が何も言い返せなかったことだった。朝鮮人である自分に誇りを持てるものがなかったからだ。それを機にどこか卑屈になり、堂々とできなくなった。 変わったのは高校の頃。日本学校在学朝鮮人学生会でウリマルを学び、同胞の友達ができた。大学進学後は、在日韓国青年同盟に属しながら祖国の統一について考えた。自信は取り戻したものの、自分の意思を自分の言葉(ウリマル)で自由に表現できないいらだち、もどかしさも生まれてきた。人間を形づくるのは「言葉」だと確信するようになったからだ。 家庭を持ち、子供の教育を考えた時、「自分のルーツを自然に受け止められる環境で育てたい」と心から思った。そして、幼い頃からウリマルを学べる朝鮮学校で育てることを決めた。 アッパも質問 ソンスゴン(ハンカチ)、クプシク(給食)、ウッシン(上履き)…。長女の仁玉ちゃんが学校で学んだ単語を一つ一つ教えてくれる。「子供と一緒に成長している感じがして楽しい」と李さんは言う。 仁玉ちゃんが最初に発したウリマルは「アッパ」(アボジ=お父さんの幼児語)だった。そのアッパにとって仁玉ちゃんはウリマルの「先生」だ。 「ソルゴジ(洗い物)せーや」、「アンジャ(座る)しー」。中途半端なウリマルだが、李さんは子供たちに努めて話しかけるようにしている。 仁玉ちゃんの下に3歳と1歳の男の子がいる。「この子たちとはもっとたくさんのウリマルで話したい」。暇を見つけて日常会話を習うつもりだ。(おわり、張慧純記者) |