地名考−故郷の自然と伝統文化

全羅北道−@湖南平野

古来からの一大

司空俊


湖南第一城の全州南門


春香伝の舞台、南原


 東部は山地、西部には平野が広がる。東部の平均海抜は241メートルと低く小白山脈、盧嶺山脈がほとんど同じ方向に走り、その間に鎮安高原が位置する。

 西部には朝鮮で最大の湖南平野などが位置し、古来からの一大穀倉地帯である。それで、「湖南平野の道」とも呼ばれたりしている。

 湖南平野は2地域に分けると金堤平野と万頃平野になるので、その頭文字をとって「金万平野」とも呼ばれている。

 全州から西方の万頃へ、裡里から南方の井邑へと行くにつれ湖南平野はより広がりを増す。錦江、万頃江、東津江が朝鮮西海に向けて流れ、古くから碧骨池(ビョクコル池)などの水利施設が造られ、「1年米作りをし、3年間食べる」などといわれた、朝鮮第一の穀倉地帯であった。

 湖南平野は北は錦江流域、南は全羅南道との境界線になる盧嶺山脈まで、東西7キロメートル、南北七十九`bの大平野である。

 湖南平野は万頃江と東津江の流域に広がる沖積地のほかは、ほとんどが花崗岩が浸食された丘陵地が散在する準平原である。

 残丘の代表的なものは南山、竜天山、高峰山などで、海抜1050メートル内外である。

 東部の小白山脈と盧嶺山脈の間には、海抜500〜1000メートルの鎮安高原が広がる。朝鮮南部の脊梁(せきりょう=背骨の意味)山脈といわれる小白山脈は徳裕山(1508メートル)などがある1000メートル級の山地帯だ。

 海岸線は沈降海岸で、屈曲が大きく、群山半島、辺山半島が突出し、群山湾、扶安湾などがある。だが海岸線はそれほど複雑ではない。147個の島があるが、住民が住んでいる島は32個である。

 しかし、潮汐差は7.5メートル、潮流は毎秒2メートルと早く、築港には不利である。群山付近では錦江の土砂がたい積しているため、不安定な浮き桟橋を使用していた。気候は温暖多雨である。

 三国時代には百済に属した。当時は全羅南北道には完山州(全州)、武珍州(光州)など九十九州、郡、県が置かれた。

 新羅時代の686年(神文王6年)からは熊(公州)、全(全州)、武(光州)が中心地になったりした。892年(甄萱王〔キョノンワン〕1年)には後百済に、932年(太祖10年)には高麗に属する。全羅道という名称があらわれたのは1018年(顕宗9年)である。全州と羅州の頭文字から名付けられた。

 李朝時代にはいくどかの改革が行われ、1894年(高宗31年)に全羅道が南北に分割されるまでは、全南道、光南道、全羅道、全光道などと呼ばれた。

 名勝地には「春香伝」の舞台の1つとなった広寒楼、九折羊腸(渓谷が回りくねっている様子を意味する)の茂木朱九千洞がある。曹渓山、全州八景、徳裕山、完州の高さ80メートルの吊橋なども、観光客でにぎわう場所だ。(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員)

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