知的障害を持った リ・ホリョル君(広島県在住)の卒業

ウリハッキョに行きたい

「願いかなえたい…」 教育関係者、制度実現へ10年


卒業式で。鎬烈君(右)と仲良しのチェ・ミヒャンさんと


 今春、知的障害を持つ生徒が広島朝鮮初中高級学校高級部を卒業した。李鎬烈君、18歳。幼い頃からハルモニ、ハラボジと生活をともにしウリマルの中で育った彼は、ウリマルが大好きだった。「朝鮮学校に行きたい」という本人と両親の切実な願いは、朝鮮学校と日本の養護学校の両方に籍を置く「併習」制度で実現した。その道程は決して平坦なものではなく、同胞障害児の民族教育の権利を真しに見つめてきた両親、朝・日の教員、同胞、クラスメートらの10年越しの努力があった。(張慧純記者)

かけがえのない トンム の支え

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 鎬烈君の両親は、彼が幼い頃からウリハッキョ(朝鮮学校)、ウリトンム(朝鮮の友達)の中で育てたい、と願い続けてきた。しかし、朝鮮学校は日本政府の公的な助成がなく、障害児を受け入れるには様々な制約がある。

 両親には、この状況が痛いほどわかっていた。「迷惑をかけられない」。

 思い悩んだ末に両親は、地元の日本学校に通わせることにした。しかし、鎬烈君は日本学校に行きたがらなかった。結局、日本学校に通ったのは、9日間だけだ。

 この状況を知り、対策を講じたのが広島朝鮮第1初級学校(当時)の教員たちだった。鎬烈君が寮生活をしながら民族教育を受けられるように措置を講じた。鎬烈君は1年間の寮生活でウリマルを徹底的に学んだ。このことがのちに彼が民族教育にこだわりを持つ大きなきっかけになった。

 翌年には弟の入学を機に、教員の助けを借りながら自宅からの通学も始めた。が、4年の2学期から、休みがちになった。通学が負担なのか、学校が嫌いになったのか、誰にも理由が分からなかった。

 同時に彼の生活からウリマルがどんどん消えていった。鎬烈君にとってウリマルを話すことは、自分が何者かを知る営みだった。両親は危機感を覚えた。

 「鎬烈に民族教育を保障できる他の手立ては…」

 再び両親の模索が始まった。そして、自宅から20キロほど離れた廿日市養護学校(廿養)に相談を持ちかけた。

 「養護学校に認められている『交流教育』という制度を使って鎬烈君を朝鮮学校に通わせましょう」

 廿養側は、誠心誠意応えようとしてくれた。両親と朝鮮学校と廿養の3人4脚が始まった。中学校進学後も、養護学校(時には地元の日本中学校)に籍を置きながら朝鮮学校に通う生活が続けられた。

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 この間、彼が住んでいた大竹市では、朝・日の教員、同胞らが「ウリハッキョに行きたい」という鎬烈君の思いを実現するため、真しな取り組みを続けていた。

 これは、地元の小学校が彼の受け入れに消極的だったことへの反省から出発したものだった。

 日本政府の差別により、朝鮮学校には日本の公的助成はまったく適用されない。障害児が日本学校に通った場合、それをサポートする人的、物的な補助が支給されるが、朝鮮学校にはそれがない。したがって朝鮮学校は、教員の献身的な努力で障害児教育を保障するしかなかった。

 朝・日の教育関係者と同胞らは、鎬烈君の民族教育を保障する手立てを探る勉強会をいく度も開き、行政との折衝を重ね、朝鮮学校が置かれた状況を知らせた。

 この取り組みの中で、「朝高入学」の方向性が見いだされ、鎬烈君の高等部進学を機に、朝鮮学校と養護学校の両方に籍を置く「併習」制度が生み出された。

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 10年の月日を経て「併習」制度が実現したのは、鎬烈君には民族教育が不可欠だという認識が養護学校、朝鮮学校、行政の中で生まれたからだ。周囲をその方向に引っ張ったのは、朝鮮学校にかける鎬烈君の熱い思いだった。

 鎬烈君が朝鮮学校を望んだのは、そこにウリマルがあり、ウリトンムがいたからだった。

 鎬烈君の父、李相億さん(52)は、今でも朝高の運動会で彼を真剣にしかる同級生の姿を忘れられないという。

 初級部から彼とともに過ごした朝高の同級生は、彼を特別あつかいしなかった。でも、鎬烈が発作を起こし、顔がつっぱり、けいれんが起きると、約束したかのように数人がかりで彼の手足を押さえ、発作がおさまるのを待つ。すばやい対処だった。

 出来ることは徹底的にやらせ、甘えがなかった。同級生は、「鎬烈がもっとも安らぎを覚えるパートナー」(高2、高3と鎬烈君のクラスを受け持った呂東珍先生、36)だった。

 ウリマルが大好きな鎬烈は、日本語で声をかけると「ウリマルを話せ!」とおこり、教員すら知らない朝鮮民謡を歌い、キムチを欠かさず食べていた。朝鮮学校は彼にとって「よりどころ」だった。

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