地名考−故郷の自然と伝統文化
慶尚南道−B晋州、統営、固城など
論介、義兵たちの愛国心伝わる
司空俊
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晋州は馬山から75キロメートル、矗石楼(チョクソク楼)と論介で知られる。論介は妓生(キーセン)の身であったが、壬辰倭乱の時、日本侵略者の武将の首を抱き、洛東江支流の南江に投身した愛国者である。そこが「南江義岩」である。1592年10月、日本軍は2万の軍勢を繰り出したが敗北、豊臣秀吉は怒り、翌年6月、9万3000人を動員して晋州城を攻めた。いい伝えによるとこの時、倉庫に入れば生かしてやると布告したが、倉庫の扉を閉じて火をつけるなどして、6万人を虐殺したという。日本軍がチョクソク楼で宴をあげたとき、南江のほとりに日本軍の武将を誘いだした論介は、彼を道ずれにして南江に身を投じたのである。
名物は南江の鯉膾(コイの刺身)、たけのこ料理とビビンバプ(混ぜ飯)である。晋州牛といえば知る人ぞ知る名物である。 統営は1603年から350余年間、慶尚南道、全羅道、忠清道の三道水軍統制営の所在地で水軍の根拠地であった。統営と改称されたのは1995年1月からでる。特産は真珠貝を使った螺鈿(らでん)漆器と、欲知島のミカンである。 同市の前面は露梁海峡で、李舜臣将軍が亀甲船を率いて140余隻の侵略船を撃破して日本水軍を壊滅させた閑山島戦場として知られる。付近には、この時に関連した地名が残っている。「洗兵館」(将兵が刀を洗い、ほこりを被った身を洗ったということに由来。水軍統制営が置かれた所)、頭偲(倭兵の首級を多くあげた所)、高同山(敵の接近を知らせるコドンを打った所=コドンは物事の最も重要な瀬戸際に汽笛や太鼓などの音で知らせること、朝鮮固有語のコドンは地名の漢字で高同になっている)、望谷山(見張り台が置かれた山)、蟻頃(倭兵が蟻のように逃亡した所)、解甲島(将兵がかぶとを脱いだ所)、衣岩(朝鮮の将兵が洗濯をした所)といった具合である。 名勝地は閑麗水道、詩的情緒にあふれる多島海の絶景、船が進むにつれ、迎える島々、送る島々、蒼青の海に航跡がひとすじ残る静かな海、これが故郷の海であった。 しかしこれは昔の話しで、今はこの自然は外来者によって奪われ、汚されている。 固城はもともと本伽耶国であり、新羅時代は固自郡と称していたが、壬辰倭乱時、侵略者を打ち負かし、かたく守ったことから「固城」と呼ばれるようになった。九節山は、1人で押しても、10人ほどで押しても、揺れ具合が同じだという「揺れ岩」がある。 宜寧は、朝鮮紙の壮版紙、すなわちオンドル床用の油紙を慶南全体の80%を生産している。スイカの名産地でもある。壬辰倭乱時、紅衣将軍で知られる郭再祐の出身地である。地質学でいうと新羅統(9000〜1億年前)という地層に雨痕化石が発見されている。 勿禁の鯉、ハッカの産地で知られる梁山には海印寺、松広寺(全南)と共に三大寺刹といわれる霊鷲山通度寺がある。(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員) |