地名考−故郷の自然と伝統文化

慶尚南道−@名称の由来

慶尚右道の一部を除いた地域

司空俊


智異山の壮観


伽耶山中峰にある石沸像


 朝鮮半島の東南端に位置する。過去、日本侵略軍の数次にわたる上陸地点となった軍事的要地であった。慶尚南道は、太白山脈とこれからのびる小白山脈によって江原道、忠清北道、全羅南北道と接し、嶺南地方を構成する。

 筆者は地勢を4つに区分している。

 「東部地方」北から長くのびる太白山脈よりもずいぶん低く、地質は中生代の新羅統という地層で、所々に花崗岩や班岩が貫入している。太白山脈の分脈は南北方向に構造谷(地殻変動で窪地になった谷)を発達させ、交通を容易にしている。

 「西部地方」嶺南地方と湖南地方を分けるのは小白山脈である。小白山脈の東方、陜川と晋陽地方には盆地が開け、主な農作地になっている。

 「中央低地」洛東江流域の低地で、河岸平野と支流の浸食によってできた谷地平野が発達している。中でも南旨、進永、密陽平野はこの地方の穀倉地帯である。「海岸地帯」東海岸は単調な岩石海岸で、島は少ないが蔚山湾などの湾入もある。

 南海岸は海岸線が複雑で、鎮海、馬山、泗川には湾入があり、固城半島などの突出部があり、巨済島など400個以上の島々がある。

 全般的にみて、慶南地方は西北部を走る山脈が冬の季節風を弱め、東海を流れる暖流が気温を高めている。

 名勝地には智異山、閑麗水道、伽耶山、徳裕山などがある。

 42年に建国した伽耶(駕洛)は、新羅と百済にはさまれ紛争が絶えず、一方、海から進入する日本侵略者と戦った。「三国史記」によると532年、新羅の領土になり、西部は一時、百済に属したりした。

 統合新羅時期には康州と良州に属し、高麗時代には康州と良州、尚州の3つを合わせて東南道と称した。995年に10道制が施かれた時、慶尚南道地域は嶺東道と山陽道の2道に分離された。

 1106年には慶州、尚州、晋州が位置する道であるということで「慶尚晋州道」とも称された。1171年には「晋陜川道」に分割されたり、再合併されたりしながら、1204年頃に「慶尚道」という名が出始めるが、1314年頃から慶尚道という名称が固着しだした。

 1396年に、それまでの五道両界制(行政区域)が廃止された後にも、また、1895年に8道制が制定された時も慶尚道と称されていたことからみて、長い期間呼称されたとみてよいだろう。1519年、洛東江を境界にしてソウルに向かって左側を「慶尚左道」、右側を「慶尚右道」の両道に分割された。その後、分合をくり返したが、現在の慶尚南道は慶尚右道の一部を除いた地域に当たる。

 はっきりと慶尚南道と称されたのは、高宗建陽元年(1896年)、13道制が制定された時からである。 (サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員)

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