地名考−故郷の自然と伝統文化
慶尚北道−C慶州の佛国寺
優美で雄大な朝鮮式建物
司空俊
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仏教最盛期の景徳王(742〜764年)の時には66寺があったという。 現存するものは三寺、新羅文化を象徴するのが佛国寺である。慶州東方15キロメートルの吐含山(海抜754メートル)の中腹に位置する。535年に建立、751年改築、70余棟の建物と27個の石造物を増築。しかし、壬辰倭乱時に日本侵略者(加藤清正)の放火にあい焼け、後に再建された。最初の大きさの10分の1程の規模である。優美で雄大、華麗な朝鮮式建物である。東洋的な奥ゆかしさがある寺である。
多宝塔・佛国寺の中心は大雄殿と東側の多宝塔である。どちらにも三重の石塔の釈迦塔(別名・無影塔)がある。「無垢浄光大陀羅尼経」は釈迦塔から発見された。記録から明らかにされたのは、752年に刷られた世界最古の木版印刷物であるということである。高さ10.4メートル労の花崗岩の塔で、新羅美術の素晴らしさを見せる。あたかも木材のように石材を自由自在に刻み、組み立てている。 鮑石亭・慶州南方4キロメートルの新羅離宮の一部。あわび(鮑)型の石溝が残る。このあわび型曲水に酒杯を浮かべて送り、盃が流れ、自分の前にくる間に詩を創り、詠じ、次に流し、廻し飲みをした宴席である。55代王景哀王(924〜926年)はここで酒遊中、後百済軍勢に捕われた。こうして新羅が滅びるきっかけをつくり、992年間の幕を閉じたのである。この地域は1975年に慶州市に編入された。 石氷庫・瞻星台は東方五百bの月城内に位置する。古書によれば、506年11月に自然氷を貯蔵し、夏に利用したと記録されている。現存するものは741年と1738年に改築されたものである。花崗岩で作られ、横5.78メートル、長さ19メートル、高さ5.15メートルの大きな氷貯蔵庫である。 石窟庵・佛国寺は東方13キロメートル、吐含山の頂上近く、東南に面した山腹に位置する。この地の絶壁を背景に朝鮮東海の蒼波を望む谷間に造られている。751年、佛国寺は金大城によって建立されたものを、後に国家的事業として完成したものである。建築史、美術史でも世界的に知られる新羅石造芸術文化財である。もとは佛国寺に付属する寺院であったが、石窟庵だけが残る。この地域は1975年に慶州に編入された。 1909年秋、第2代の統監であった曽※(※=示編に不の下に雨)荒助一行が視察名目で慶州石窟庵を訪れたことがあった。彼が帰ったあと、庵の本尊の後ろにあった大理石製の五重小塔が消えており、ただ台石だけが残っていた。ちなみに彼は1年間ほどの間に朝鮮文化財と古書を盗みとり、日本皇室に「寄付」している。奪われたものはこれにとどまらない。最近伝えられるのは、自動車道路の振動が世界的人類遺産の瞻星台に影響を及ぼしていることである。(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員) |