地名考−故郷の自然と伝統文化

慶尚北道−@南の5分の1占める

太白、小白山脈に囲まれた「盆地」

儒林の中心地として有名な慶北 慶洲の雁鴨池

 慶尚道という地名は、この地方の中心地であった「慶州」と「尚州」の頭文字から付けられた。慶尚南北道を「嶺南地方」ともいう。嶺南地方は鳥嶺、竹嶺以南地域を指す場合もある。慶尚南北道、全羅南道をあわせて「3南地方」ともいう。

 慶尚北道を故郷にする在日同胞は多い。面積が南朝鮮の5分の1ほどでいちばん広い。

 慶尚北道は新羅文化の発祥地でもある。古代には辰国、三国時代には新羅に属した。新羅は徐耶伐、斯羅、斯盧と称されていた。新羅という国号は307年に定められた。

 新羅の建国伝説によると、初代王の朴赫居世は古朝鮮遺民が住む6村の村長に推されて王になったという。新羅は百済、高句麗と共にぼっ興するにつれ、洛東江の右岸と沿海地方を占めていた伽耶の国々や辰弁の領地を併合していっ た。

 668年、高句麗王朝が崩れたのを機に新羅が3国を統合した。慶尚道地方には尚州、良州、康州が置かれ、現在の慶尚北道にあたる地域は尚州、良州(現梁山)に統轄された。

 936年、高麗によって後三国が統一された後、この地方は高麗の領土になった。高麗は3州を東南道としたが、995年、全国を10道に分けた。この時、この地方は嶺南道、嶺東道に分けられた。1106年にはこれを併せて慶尚晋州と呼んでいたが、2分されて慶尚州道、晋陜州道になり、その後再び2分されて慶尚晋州、慶尚普陵などと称された。

 慶尚道と呼ばれたのは「李朝実録」世宗地誌によると、1314年からである。1519年、洛東江を境に左右の両道に分けられ、以後、分合をくりかえしたが、現在の慶尚北道は当時の慶尚左道の大部分と洛東江流域の右岸の一部である。

 1895年、全国が23府の行政区に分けられた時は大邱府、安東府、東莱府に属し、翌年、13道制が実施された時には慶尚北道と呼ばれ、行政中心地は大邱に定められた。

 筆者は地形区分を次のようにしている。

 慶尚北道は太白山脈と小白山脈に囲まれ、中央低地に洛東江が流れる。そのため、地形区分は東部海岸地帯、太白山脈の東部山地、琴湖江流域地方(大邱盆地、琴湖江平野)、洛東江流域地方(安東盆地)、小白山脈の西部山地に大別される。一言でいうならば慶尚北道はあたかも大きな盆地のようである。太白山脈は中生代白亜紀の高原状の地形で、北には太白山、山脈の中には日月山、普賢山、八公山、琵瑟山の山々がそびえている。

 小白山脈は片麻岩が多い山地であるが、浸食からとり残された高く険しい山もある。一帯は盆地状であるので、峠によって連絡されるが、古くは鳥嶺(362メートル)、今は梨花嶺(聞慶峠、548メートル)が嶺南交通の基本である。
(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員)

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