在日の歴史、なんでもQ&A

朝鮮への帰国について?

総聯川崎支部中留分会同胞が手紙
/‘59年12月に1次船出港


新潟を出航する第一次帰国船
(1959年12月14日)


  朝鮮への帰国はどのように実現したのですか?

  解放後、在日同胞の帰国は朝鮮戦争(1950〜1953年)の勃発によって完全に途絶えてしまいます。帰国できなかった同胞たちは民族差別のため安定した仕事を得られないばかりか、ひどい生活状態を余儀なくされていました。

 朝鮮戦争が休戦になると同胞たちのなかで帰国希望者が出てきます。とくに急速なテンポで復興と建設が進んでいた朝鮮へ帰国したいという要求は高まっていました。そうしたなか1958年8月、総聯川崎支部中留分会の同胞たちが、集団帰国の希望を託した手紙を金日成首相(当時)に送ります。これを受け金日成首相は建国10周年記念大会の演説で、在日同胞の帰国を歓迎し、新しい生活を営むすべての条件を保障することを表明します。こうして帰国運動は全国的に広がっていきました。

 また元首相鳩山一郎をも含む超党派による人たちで「在日朝鮮人帰国協力会」が結成され、帰国を支持する日本国民の声もしだいに高まっていきます。

 その後59年2月13日、岸内閣は帰国を認める「閣議了解」を決定し、4月にジュネーブで朝・日両国赤十字代表者会議が実現します。そして「神戸―東京間自転車行進」など様々な運動のかいもあって、8月13日、インドのカルカッタで帰国協定が調印されました。

 しかし協定の実現は円滑に運びませんでした。日赤は、過度の帰国意思再確認手続と帰国者の外出や外部との接触を禁止するという内容の「帰還案内」を作成し、協定実現に不誠実な対応を取りました。一方、民団側は「北送反対」をスローガンに、「帰国船を撃沈する」といった脅迫宣伝活動や帰国列車の前に座り込みを行うなど、帰国反対運動を展開します。

 しかし、これら妨害活動も同胞たちの帰国の熱意をくじくことはできませんでした。
 そして12月14日、975人を乗せた第1次帰国船が祖国に向かって、新潟港を出港したのです。(金大遠、研究家)

日本語版TOPページ

 

会談の関連記事