第3次離散家族相互訪問2.26〜28

統一してまた会おう 

北南100人ずつが懐かしい肉親と対面


 6.15共同宣言発表後3回目となる離散家族・親戚の相互訪問が2月26〜28日、平壌とソウルで、それぞれ2泊3日の日程で行われた。1次、2次の時と同様、北側訪問団と南側訪問団がソウルと平壌をそれぞれ訪問し、各100人の離散家族・親戚が懐かしい肉親との対面を果たした。

平 壌

50年前、父がくれた勇気
息子がアボジの傘寿祝う

 慶尚北道尚州市に住む、チェ・ヒョンソクさん(87)は、息子のスジョンさん(70)と半世紀ぶりの対面を果たした。忠清北道鎭川郡で生まれたスジョンさんは、朝鮮戦争が勃発するや、義勇軍に志願した。19歳だった。

 朝鮮人民軍の戦略的後退の時期、故郷の畔道でアボジと再会したことがある。

 「お前はその道を行け」。アボジのこの一言が、強行軍の支えになった、とスジョンさんは振り返る。

 戦後スジョンさんは、大学で建築を専攻。平壌大劇場をはじめ、首都の復興に貢献した。1960年代からは黄海南道の甕津協同農場で祖国の農業発展に身を捧げた。10年前からは体が思うように動かず、外出もままならない日々だが、アボジが平壌に来る、との知らせを聞いて「気力がわいた」。

 平壌を訪れたアボジの長寿を願い、遅ればせながら傘寿を祝った。

 「アボジ、あと3年は元気でいて下さい。家族みんなで会いに行きますから」

 「3年だと。あと5年は長生きするぞ」。アボジと息子は互いの顔を見合わせ、豪快に笑った。

親不孝わびる76歳の息子/手握りなぐさめる94歳の母

 ソウル在住のリ・フソンさん(76)は、朝鮮戦争で生き別れになったオモニが生きているとは、夢にも思わなかった。

 米軍が原子爆弾を投下し、北が廃墟と化す―。この宣伝を信じたフソンさんは、黄海北道平山郡に両親と妻、弟を残して、1人南へ旅立った。

 戦後、貧農だったフソンさん一家は、生活が苦しかったため、あらゆる辛酸をなめたという。その苦労を一身に背負ったのが、オモニのチャン・オモクさんだった。

 平壌で今年94歳になったオモニの姿を目にしたフソンさんは、大粒の涙を流して親不孝を詫びた。オモニは、息子の手を固く握り、「泣くな、泣くな。こうして会えたじゃないか」となだめるばかりだった。

 「村に農業協同組合が作られてからは、農村の生活も一変し、こうして立派に生きてきた」(チャンさん)

 50年ぶりの再会。オモニと息子は、その歳月を埋めるかのように見つめ合っていた。(平壌発=金志永、李鉉民記者)

ソウル

希望の宝物にする/兄弟が統一願い詩を交換

 「偶然なのか必然なのか、2人とも詩を用意していたんですよ」

 平壌市在住のパク・コニャンさん(70)とソウル市に住むその末弟、チギャンさん(57)は50年ぶりの再会の席で、まるで約束でもしたように統一への思いを込めた詩を互いに披露した。

 北で歴史教育の分野に携わってきた兄と、南で建築設備関連の仕事をする弟。共に暮らしていた幼い頃、詩が好きだった兄が、学校で習った詩を弟たちによく教えていたという。

 「互いに詩を作ってきたのは偶然かもしれないが、統一を願う内容の一致は必然だ」

 初日、弟は再会の喜びをうたう詩を作り、兄がこれに答える詩を書いた。この詩を、会ってはまた別れなくてはならない痛みを癒すためのものではなく、再び必ず会えるという希望の宝物として大切にすると、兄弟は口を揃えた。

ちゃんと聞こえる、心配しないで/幼い頃のケンカ、50年間後悔

 キム・イノンさん(71)は50余年前、けんかで弟の右耳の鼓膜を破ってしまったことを今も後悔している。南に別れて暮らすその弟、イナンさん(66)のことを片時も忘れたことがない。

 「耳がまったく聞こえないわけではない。左耳は正常だし。あんまり心配しないで」

 兄弟は半世紀ぶりに笑顔で再会した。

 解放前、キムさん一家は慶尚北道で暮らしていた。しかし解放後、父親が運動に身を投じていたため反動勢力のテロによって家を焼かれ、追放されることになる。家族はバラバラになり、イノンさんは単身北へ渡った。

 その後、イノンさんは家族の生死すら知らずに過ごしてきたが、1985年、平安北道で看護婦をしていた妹のインギョさんと偶然再会する。そして、残りの兄弟が釜山や京畿道で暮らしていることを聞いたが、それは50年代後半の古い情報だった。

 「生きているうちにお前とこうして会えるなんて、夢のようだ」

 短い再会の時間、兄弟は離れ離れだった50年間の人生について語り合った。

 イノンさんは、弟を心配し続けた苦痛からは少し解放されたようだと言う。

 「でも、分断の苦痛をなめているのは世界で私たちだけだ。民族が力を合わせて分断の歴史を終わらせなければ」

 「本当に早く統一されなくては。次は私たちが平壌を訪ねる番だし、これからはちょくちょく会えるようにならなきゃ」
(ソウル発=文光善、姜イルク記者)

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