独裁と対峙したオモニ−徐京植(下)
苦しみ多かった60年生涯
非転向長期囚の苦難、世界に伝える
解放後、夫の事業は浮沈を繰り返したが、それでも60年代には小さな紡績工場を持つまでになり、4男1女の子供たちに高等教育を受けさせたいという長年の夢が叶うようになった。65年に「日韓条約」が締結されると、このまま日本で大学を出ても将来に何の見込みもないからと、次男と三男が母国留学の道を選んだのだ。幼い頃日本に渡ってきて以来、40年間も断絶していた祖国とのつながりがそのようにして着実に回復していくことが、呉己順には不思議でもあり嬉しくもあった。だが、その祖国で、息子たちは政治犯として投獄されたのだ。(中略)
徐勝と俊植は獄中で「思想転向」を拒否し続けた。呉己順もまた面会に通ううちに、独裁との彼女なりの闘いを闘うことになった。闘いの第一歩は、独習で字を覚えることであった。日本と韓国を往来するため、また、監獄で面会や差し入れを申請するため、どうしても自分の名前や住所を書かなければならなかったからだ。監獄当局は、政治犯を転向させるよう母親や妻たちにまで圧力をかけたが、呉己順は「学校にも行ってないので難しいことは分からない」と拒み続けた。徐勝の回想によると、業を煮やした担当検事が「ゴーリキの 母 みたいだ」と罵るのに対しても、呉己順は「ゴーリキてなんや?」と反問するばかりだったという。「オモニ(おかあさん)が差し入れたパンやリンゴ、セーター、下着、靴下、毛布まで、オモニの手に触れたものに接しなかった人は誰もいなかった。恐ろしい拷問とテロが吹き荒れるなかで、孤立無援の非転向囚の苦しみを外部世界に伝えたのはオモニだった。……工作班(転向強要のための特別チーム)の脅迫や嫌がらせに屈しなかったオモニだった。オモニより年上の老政治犯も自分の母のように オモニ、オモニ と言いならわした」。(徐勝 『獄中一九年』 ) 80年5月19日。韓国で民主化を求める光州市民に戒厳軍が襲いかかり無差別殺りくを繰り広げていたその日。夜中を過ぎて、呉己順は京都市内の病院でガンのため息をひきとった。死の直前、「朝までの辛抱やで!」という声にかすかに応えた。 「朝まで? しんどいな。まだまだやないか…」 懲役7年に加えて社会安全法による10年の拘束を終えて、徐俊植が非転向のまま出獄したのは88年。呉己順の死から8年が経っていた。徐勝が仮釈放で出獄したのは、さらに2年後のことである。 呉己順は在日朝鮮人1世の女性として差別と貧困をなめた。40年を経て再会した祖国は軍事独裁の暗黒のただ中にあった。その苦しみ多かった61年の生涯は、今世紀に朝鮮民族が経験した植民地支配と民族分断を一身に体現するかのようだ。それは、帝国主義と軍事独裁の時代の、虐げられ軽んじられている民衆たち、とりわけその母たちの生に通じている。時ならず予測を超えた輝きを発する彼ら民衆のしたたかさと知恵深さは、呉己順のものである。(本稿は徐京植著「過ぎ去らない人々 難民の世紀の墓碑銘」=影書房刊=に収録されている。京植氏は徐兄弟の末弟で、作家・東京経済大学教員) |