地名考/故郷の自然と伝統文化
釜山―A五感の都市
民族の恨が交錯する関釜連絡船
司空俊
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在日朝鮮人にとって釜山は何とも表現しにくい都市である。
懐かしい故郷をあとに故国を離れた港のほとんどが釜山である。 この港から日本に渡った同胞にとって最も忘れることのできない場であろう。土地を奪われ、強制連行や徴兵・徴用などによって、日本に渡った1世同胞の誰もが半世紀以上も日本で住もうとは思っていなかったはずだ。 肉親や兄弟たちと別れることになった涙の釜山港。 南の同胞は釜山を五感の都市と呼んでいる。それは、離別を強いられた人々の涙にくれる悲しみの声、生活にやつれ、再会を喜ぶ交歓の声、雑踏(ざっとう)の足音、客を呼ぶ叫び声、展望が見えず、今を生きる人々の声など、この地に住む人々の喜怒哀楽を反映しているという意味である。 主な見所は市内の繁華街、海岸地区の名勝探訪と内陸の古刹(こさつ)、それに温泉街の3つである。 繁華街は市中央部の竜頭山公園を中心に、釜山駅と四屏山を結ぶ一帯である。港だけに南浦洞には600〜700メートルに及んで、70軒ほどの酒場やバーなどがあり、ほかに飲食店が90軒ほど並んでいるだけでなく、外国の船員を対象にした「テキサス通り」というものもある。 影島(ヨンド)は開閉式陸橋(船舶が運航するときに橋が上がるようになっている)で結ばれているが、この島は古くから陶磁器の産地として有名であったが、今は造船所が立ち並んでいるという。 影島の最南端には奇岩怪石(きがんかいせき)に囲まれた太宗台がある。ここの灯台から対馬が望める。 名勝地は海雲台で、2キロメートルほどの砂浜には海水浴場と、100年ほど前に海から沸き出たという温泉(アルカリ単純温泉、沸出量は1日500トン)の休養所でもある。 海水浴場には1日平均10万人を越える。東菜温泉、影島梵魚寺などにも人波が絶えないという。 釜山北方の金井山(790メートル)にある禅宗の梵魚寺は678年に創建されたものであるが、壬臣倭乱の時に焼かれ、現在のものは1613年に再建されたものである。 下関との間に関釜フェリーが就航している。観光客などが玄海灘を渡る姿を思い浮かべながら感じることがある。 かつて日本の対馬との交易の拠点でもあり、豊臣秀吉の朝鮮侵略の際には、サムライたちの上陸地点でもあった釜山。近代に入っては、日本の大陸侵略の第一関門として重要な位置を占めた場所でもあった。 日本の朝鮮植民地支配の足場であった関釜連絡船は、北の鴨緑江、豆満江とともに、血と涙の織りなす民族の恨が交錯する吹き溜まりだった。 それゆえに「連絡船は出ていく」(37年)は単なる恋人どうしの別れ歌にとどまらず、身を切られるような別れの辛さをうたった歌として、同胞の心を激しく揺さぶったものである。 汽笛鳴る 連絡船は出ていく 元気でね さようなら 涙のハンカチ ほんとうにあなただけをほんとうにあなただけを 愛しているから 涙を拭きながら 出ていきます 〈ああ、泣かないでください〉 泣かないでください 歴史は過去と現在の対話というが、玄海灘が在日朝鮮人の歴史を抜きにして語れないということを多くの同胞と日本人は知らなければならないと、強く思っている。(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員) |