侵略戦争中の花岡鉱山落盤事故

経営者の同和鉱業、朝鮮人労働者を生き埋め

「不可抗力」「遺骨発見」


外交問題化、追求恐れ虚位恐れ虚位報告

 植民地時代の1944年5月、秋田県・花岡鉱山で朝鮮人11人が生き埋めになった七ッ館坑落盤事故。経営者の同和鉱業(東京)が55年に会社側の責任を追及する朝鮮人の運動を警戒し、安全管理を怠っていたことに事故の原因があったにも関わらず、「不可抗力の事件」とわい曲しながらも、追及のほこ先をかわすために遺骨の発掘を外務省に申し出ていたことが、昨年末に公開された外交文書でわかった。関係者は、「当時は南朝鮮との国交正常化交渉中の最中。朝鮮人の反発が外交問題へと発展することを恐れたその場しのぎの対応」と分析する。

 この資料は、外務省が昨年12月20日に公開した外交文書に含まれていたもので、朝鮮人強制連行真相調査団が発見した。フィルムコピーの状態で、17枚におよぶ。

 資料は、花岡鉱山経営主の同和鉱業が外務省に提出した「七ッ館坑陥没災害報告書」と、鉱山側の報告を外務省が整理した文書。犠牲者が死亡した場所を示す図も添付されている。これらの資料は9〜11日、秋田市で開かれた「秋田県の朝鮮人強制連行展」で公開された。(関連記事参照)

 外務省が整理した文書によると、55年1月、同和鉱業幹部が外務省を訪問。「最近、花岡在住の朝鮮人25名が本件を蒸し返し、現在の賃金ベースで当時の給与を支払えと無法な要求を行」い、「朝鮮人団体が外務省、韓国代表部に陳情する計画」を地元の警察から連絡を受けたことから、「(同和鉱業が)外務省に資料を持参した」と記述されている。「(南朝鮮)代表部から申し立てがあれば連絡を欲しい」との記述もあり、事件が外交問題に発展することを恐れた企業側の姿勢も伺える。

 七ッ館陥没事故は、44年5月29日に起きた。花岡鉱山七ッ館坑の真上を流れていた花岡川が陥没。坑夫たちが鉱内を行き来していた連絡坑も同時に崩れ落ち、そこで働いていた朝鮮人11人と日本人11人が生き埋めになって亡くなった。

 七ッ館坑は常に浸水、落盤の危険性があった。しかし、坑夫らが人道用坑道の設置を再三求めたにも関わらず、会社側はこの要求を無視。坑を補強する柱もなかった。花岡鉱山で働いていた李又鳳さん(77、秋田県在住)の証言や関係資料によると、会社側の不十分な管理態勢が、陥没・死亡事故の根本原因だった。

 事故後の対応もひどいものだった。会社側は他の坑道に被害が拡大するのを恐れ、坑内に犠牲者がいるにも関わらず、夜にトラックで土砂を運んで陥没地を完全に埋めてしまった。「当時、侵略戦争遂行のため、兵器を作るための黒鉱(銅、亜鉛、鉛の原料鉱石)増の要求が日増しに高まっていた。会社にとっては人命より黒鉱が大事だった」と李さんは憤慨する。

 また文書には、遺骨発掘の意向が報告されているが、事故から半世紀以上たった今日まで、会社が遺骨を発掘した事実はない。

 調査団は、「外交問題化することを恐れたその場しのぎの対応で、実際には遺骨発掘はされなかった。企業や政府は責任をもって調査すべきだ」と話している。(張慧純記者)

50ヵ所に1万4000人/秋田・朝鮮人強制連行展

 秋田県朝鮮人強制連行真相調査団(野添憲治代表)が主催する第1回秋田県の朝鮮人強制連行展が9〜11日、秋田市のアトリオンで開かれ、600余人が訪れた。会場では県内の強制連行現場のうち20ヵ所がパネルで紹介された。1942年に慶尚北道から強制連行され、大館市の花岡鉱山で働いた李又鳳さん(77、秋田県在住)、県内の朝鮮人強制連行の実態を調査していた野添憲治氏の講演も行われた。

 1996年5月に発足した同調査団は、現地調査、朝鮮半島にいる生存者探しなど各種資料を収集し、強制連行の実態を明らかにしてきた。その結果、大館市の花岡鉱山(同和鉱業)、鹿角市の尾去沢鉱業所(三菱鉱業)など、県内50ヵ所の事業所で1万4116人が強制労働した事実が明らかになった。99年には「秋田の朝鮮人強制連行―歴史の闇を歩く―」を出版した。

 今回の展示会は、「より多くの人々に強制連行の実態を伝えよう」と開催されたもの。朝鮮人強制連行真相調査団が72年から地道に集めてきた、全国40万2000人分の強制連行者名簿も秋田県で初めて公開された。

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