地名考/故郷の自然と伝統文化

大邱―@広域行政区

3千年前に大集落、交通の要地

司空俊


大邱駅(1920年代)


大邱消防組と消防車(1925年)


 広域行政区は1995年に制定された。

 大邱はソウル、釜山につぐ都市で、昔は雄都と呼ばれ、ソウルから325キロメートル、釜山からは124キロメートル、琴湖江が洛東江の本流と合流する地点に位置している。

 四方が八公山脈や琵瑟山脈、鳥足山、臥竜山に囲まれた盆地のため気温格差が大きく、典型的な内陸盆地性気候である。最高気温、40度(1942年8月1日)を記録したこともあり、夏には30度以上が52日間続いたこともある。盆地の平均高度は167メートルもある。

 大邱の歴史は古く、この地から発掘された無紋土器から、3000年前には大集落があったのではないかとされている。伽ヤ国に属し、新羅時代には達旬火、達弗城と称され、757年に改称され「大丘」になった。「丘」が孔子の謚字だったため封建時代の支配者は「邱」としたという。1780年のことである。「三国史」によれば新羅神文王(681〜691年)の時、首都を慶州から大邱に移転しようとしたこともあったようである。大邱城があった。

 京釜線通過後、四通八達の交通要地として発達した。付近は地味豊沃で穀類、果実、莞草を産し、蚕業も盛んである。耐久力のある莞草製品は部屋むしろ、タタミ表、履物で人気がある。

 その昔、平壌、江原道の江景とともに朝鮮3大市場の1つであった。洛東江、琴湖江流域の農産物などの集散地として発達し、現在も西門市場、南市場など市場が50個近くあるという。時代により多少の変更があったが、かつて春と秋に催された薬令市が有名であった。遠く中国、インド、東南アジアにも知られたが、斜陽化して市が立たなくなった。が、市内には漢方薬房が150を越え、かつての面影を残している。しかし、60年代以降,高速道路が出来たため衰退が進んでいる。今は問屋のようになっている。

 工業は繊維工業が盛んであった。朝鮮最初の綿織物工場が建てられた地である。現在は化学繊維が主流であるが不況に泣かされている。

 市街の香村洞は夜になると急に「活気」を帯びるという。「ヤンキー市場」というと市民に通じるという。市内の達城公園は仕事のない「群像」のたまり場でもある。

 大邱と近郊の林檎は「大邱リンゴ」として知られる。国光と紅玉は品質と生産量を誇っていた。しかし、半夜目に石炭貯蔵所が移転した後は公害が発生し、被害を受けるようになった。最近はブドウ、桃、紫桃の栽培にも力を入れている。

 主な産業は伝統的な繊維工業で、工業生産の70%以上が繊維類である。原料を外国に依存している。

 八公山は絶壁や渓谷が発達し、最近は中高年の登山ブームで賑わっている。市内の達城公園は伽ヤの城跡である。
(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員)

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