「人物朝鮮の歴史」編訳者に聞く
南朝鮮の在野の歴史学者・李離和氏が書いた「ものがたり人物韓国史」(図書出版ハンギル社、1993年)が昨年末、明石書店から翻訳・出版された。原書全5巻を再構成して1冊にまとめたものが「人物
朝鮮の歴史」である。朝鮮半島の歴史において欠くことのできない人物や日本ではあまり知られていない人物など、総94人の物語をとおして、歴史の厚みと深さを読み取ることができる。編訳者は、高演義、南永昌、舘野皙、蜂須賀光彦の4氏である。高演義、南永昌の両氏に翻訳の過程で見えてきたものは何かを聞いた。(金英哲記者)
人間が主体となり動く歴史/高演義 原書は、いわゆる英雄伝ではなく、民衆の視点で書かれていることに特徴がある。原書第2巻(民族文化を興した先覚者)、第5巻(歴史上のライバルとパートナー)を翻訳する過程でいろんなことが見えてきた。 歴史は人間が主体となって創り上げてきたもので、その人間の真の姿を正しく理解すれば、歴史の大きな流れを理解することができるということを、強く感じた。そして文脈の1つひとつから、民族の独立と繁栄のために自主性を守り通すことがどんなに重要なことかを改めて読み取ることができた。 解放後の政局はとても複雑で微妙であった。現実問題を巡って路線と主張を異にし、ときには理念の対立、競争が起こったりもした。 金九(1876〜1949年)と呂運亨(1885〜1947年)もそんな関係におかれた人物であった。 互いの心にライバル意識があったにしても、2人は共通して民族の自主的統一を求めて戦い、李承晩政権によって暗殺された。 原著者はこう指摘する。「確かに永遠の同志にはなれなかった。しかし、国と民族を思う一念においては、その優劣を問うのは愚かなことだ」 また、民衆の言葉で既成権力に対抗した詩人・金サッカ(金笠、1807〜63年)の詩から、民衆に対する詩人の熱い気持ちが伝わってきた。 青松はあっちこっちに立であり/人間はこっちあっちに有である/所謂ちらほらでてくる客が/一生にがくもあまくも酒である
民族の自主性の大切さ知る/南永昌 同書のオリジナル原書(全5巻、総1739ページ)に登場する人物は200人を超える。数だけでなく、古代から現代までの人物を政治、経済、文化、科学技術など多方面な角度から掘り下げているのが特徴だ。 舘野さんの勧めで、編訳者のメンバーに加わり、99年初頭から原書第1巻(思想と学問の主役)の翻訳を開始した。編訳者3人とも同じ体験をしたと思うが、翻訳する上で、原著者の感情的な表現をどう訳出し、人命や地名、李朝時代の官職などの漢字および読み方をどう記せばいいのかなど、難しい面がいろいろあった。その都度、チェックし、南から出ている「国史大辞典」や朝鮮大学校図書館が所蔵している様々な辞典や官職の図表などを用いて、それらを調べていった。 その過程で見えてきたものは、原著者が人物を通して一貫して主張している民族の自主性である。檀君時代から現代まで綿々と守り通してきた自主の精神は、本文の中で随所に見られる。 民衆革命を提唱した民族史学の旗手・申采浩(1880〜1936年)は生涯、顔を洗うときうつむかないで顔をあげて洗ったという。衣服が濡れようとおかまいなしに洗い、人がいくら忠告しても、その習慣を決して改めなかったという。こうした一本気が民族の自主精神や歴史叙述にそのまま表れているのであると、原著者は指摘する。 朝鮮で初めて綿を栽培し、その普及に貢献した文益漸(1329〜98年)などの物語から、民族の自尊ときょう持が胸中にほうふつと湧きあがった。 朝鮮史の発展が常に外(中国、日本)からつき動かされる、受身の形でしかなかったという「他律性史観」が未だに克服されていない日本で、本書が刊行された意味は大きいと思う。
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