こども昔話を終えて
聞こえる民衆のつぶやき
李慶子
創作民話を書いてくれませんか。それも、民俗色が濃く出るものを。本紙記者からの電話を受けたのは昨年の12月初旬。聞けば原稿締切りはその10日後とのこと。おいおい、いくらなんでもそりゃないんじゃないの、と思いながら1回きりとの約束で引き受けた。ところが1年間の連載になった。今それを終え、ほっとしている。
オモニやアボジたちによる子どもへの読み聞かせを念頭に置き、さらには文字を覚え始めた子ども自らが読めるような「あかちゃん、昔むかし」として、できうる限りひらがな表記でと書き始めたけれど、枚数制限に加え新聞紙面上の制約もあり、心ならずもそうできなかったことは、申しわけないことであった。 民族教育をただの1度も受けなかったわたしが朝鮮昔話に初めて出会ったのは、日本昔話の「桃太郎」や「かちかち山」そして西欧のグリムやペローが書いた話を読んだずっと後。中学生だったか高校生だったか、今ではもうそれさえはっきりしない。学校の図書室で金素雲著の「ネギを植えた人」(岩波書店)を手にした時、ああ、私の国にこんなにも豊かでペーソスのきいたお話があったんだ、とわが身の無知さを省みず妙な感動を覚えたものだった。学校図書室にあったのはただその1冊のみ。出版点数が少なかったということもあるけれど、当時、朝鮮と日本の関係はその程度だった。今では朝鮮語はもちろん、日本語でも翻訳を含めかずかずの朝鮮昔話集が出版され、その気になればいつでも手にすることができる。 そもそも庶民の口承文芸として広く伝えられた昔話は、弱者が強者を倒すというのが基本で、その基本にそって発展してきた。わが国の昔話伝承者は家人、村人、村を訪れる来訪者の語り手といった3つのタイプに大きく分けられた。少し詳しくのべるならば、家と村の語り手では男性と女性。さらには日常的に語られる場合と祭事や村祭りの時など非日常的な機会に語る語り手に分けることができる。 親族集団を表す族譜という系図があるのは周知のことだが、その系図には祖先の著名な人物に関する事蹟などが事細かに書かれていて、一族の男たちが一堂に会する祭事の機会に長老がこの系図を開く。そして一族の祖先や歴史について語るのだ。その際、野談と言われる世間話や伝説も同時に楽しんだ。 語りにはもちろん本格的な昔話も数多くみられるが、世間話や笑い話がことのほかおおかった。これは両班たちの舎廊房(サランバン)での話と深い関係がある。両班社会での笑い話や猥談は語り手たちをきゅうくつな儒教精神から解き放ち、ときとして他者への攻撃に陥りやすい猥談を気楽な笑いにかえる意味合いをもふくんでいたのだ。 さて、朝鮮の伝統的な大家族の家では母親は家の仕事や雑事に追われて忙しく、幼子の教育における祖母の果たす役割はきわめて大きかった。7歳までの幼子は男女を問わず内房(アンバン)で過ごし、主に祖母から動物昔話を聞いて育つ。幼子にとって祖母は初めて接するもっとも身近な昔話の語り手なのだ。ところが7歳になると男の子の寝起きは舎廊房に移り、ここでようやく父や祖父から偉人伝や冒険談などを聞くことになる。しかし男子とはいえ、子どもに野談などは聞かされないため、子ども向けのとんち話が語られた。 女の子はというと、当時の女性の結婚観は子を産み、婚家を繁盛させるのが第一義であったから、嫁ぐ日まで内房で暮らし祖母や母、または女性の語り手から道徳的な話、つまりは親孝行談やりっぱな女性になるための烈女談などを聞かされた。しかし、こうした厳しい習慣には絶えず民衆の不満もあったわけで、その結果、嫁盗みといった悪習も生まれたのだ。本紙の8月で紹介した「屁っこき嫁ご」も、嫁はこうあらねばならないという慣習の中から生まれたものだ。そういえば筆者も結婚を控えたある日、母から夫の前でオナラはするんじゃないと言われたような。そのときの返事は「ふん、どうしてよ」だったと思う。 昔話を読みすすめると、当時の暮らし向きや民衆のつぶやきが聞こえてくるようで面白い。 |