「海峡を越えて」―前近代の朝・日関係史―(17)権仁燮
朝鮮沿岸を荒らした日本の海賊
100年の間に500回以上の侵入
倭寇
元による2度にわたる日本侵攻は、鎌倉幕府の弱体化をもたらし、その権威は地方、特に九州を始めとする西国には及ばなくなった。経済的拠点を失った西国の武士や、貧窮化した農・漁民などの下層民は集団を組んで朝鮮沿岸を荒し回った。「倭寇」である。14世紀中葉から15世紀初に主として高麗に侵入したものを前期倭寇、15世紀前半に中国東南地方に侵入したものを後期倭寇という。 高麗では元の勢力を背景にした貴族が「山川を境界に、州郡全体にわたる」ほどの私有地を持って人々を支配していた。国家による各種負担は日毎に増加し、農民の生活は極度に悪化していた。こうした混乱した時期に倭寇が横行したのである。 記録に残る倭寇の最初は1350年で、その後1444年まで500回以上の侵入を数える。 はじめは地方から都に運ばれる税米運搬船や各地の穀物貯蔵庫を狙ったり、秋の収穫期に沿岸地方を襲ったりしていたが、次第に時期を選ばず、時には都にまで攻め込むものまでも現れるようになった。 彼らは侵入して略奪行為を行う前に楊枝の腹を割き、戦果を占ったりもした。侵入された村々の家は焼き払われ、人々は老若男女の別なく殺され、拉致された者は遠く東南アジアや琉球に奴隷として売られた。奪った米の船積み港では、船積みの時こぼれ落ちた米が厚さ数10センチ以上にもなったという。 高麗政府は日本側にその取締りを要求したが、有効な対策はとられず、西国大名が捕虜の送還を行う程度であった。もちろん、高麗政府も手をこまねいてばかりいたのではない。戦船の建造、火器の整備などを行い、倭寇の侵入に備え、反撃もしている。 1380年、鎮浦に侵入した500隻の倭寇船をことごとく焼き払った。船を失った倭寇は、忠清・全羅・慶尚各道を襲い、「三道沿海州郡は粛然として一空となる。倭患ありてより今だかくのごときものあらず」(「高麗史」)というほどに残暴の限りをつくした。 1389年には倭寇の本拠地である対馬を攻撃した。こうして次第に倭寇は下火になったが、倭寇発生の原因が「当島(対馬)はもとより一歩一枝の田桑もなく」海藻が少々採れるだけであるというほどの貧しさにあり、その根絶には日本国内の政治・経済的安定が何よりも必要であった。 一方、高麗国内では捕倭将(倭寇討伐軍)の横暴が甚だしく、倭寇よりも恐れられていた。官民一帯の倭寇対策は次の朝鮮王朝まで待たなければならなかった。 「海国日本の進取の気性が八幡大菩薩の旗をなびかせ、東南アジアから南海諸島にかけて先進日本文化や産物を広め、沿岸住民を教化させながら当地の珍宝を持ち帰った、勇敢なる日本人の海外雄飛の一断面」であるというが、倭寇の実体は食い詰めた貧しい農・漁民による「海賊」集団そのものであった。 「歴史の窓」 「倭寇」を助長したもの 倭寇による朝鮮側の被害は甚大であった。日本で利益を得た者は倭寇を組織した地方豪族であり、西国の有力大名であった。 1428年の朝鮮通信使の正使であった朴瑞西は「その兵数は数万に及び、船は1000隻を下らない。…もし、西に向かう(朝鮮に向かう)賊に宗貞盛(対馬領主)が吸水を許さなければ、また、大内氏が赤間関(下関)で西に出るのを禁じたなら、賊は来ることは出来ない。…(賊は)風俗はその礼を知らず、和合せず、その身を顧みず、御所(将軍)の命と雖も拒み従わない。これを見るに、御所が交隣の道を行おうとも禁賊の策は穏やか(てぬるい)である」と報告している。 |