ウリ民族の姓氏−その由来と現在(25)
母親の姓だった?許氏
種類と由来(12)
朴春日
わが国の歴史で、初めて許氏が登場するのは、「三国遺事」の「駕洛(カラク)国記」である。
その昔、金首露(キム・スロ)王が天降り、伽耶国を建国したあと、臣下たちが、「王妃を迎えてくだされ」と進言した。すると王は、「すべて天命である。それを待て」と答え、臣下を近くの島へ向かわせた。 やがて西南の海上から、赤い旗をなびかせた船が現れ、伽耶の海辺につくと、世にも美しい娘が姿を見せた。王宮に迎えられた娘は、つぎのようにいうのだった。 「私は阿踰★(「施」の方をこざとへんに)(アユタ)国の王女で、許黄玉(ホ・ホワンオク)と申します。年は16でございます。このたび、天帝のお告げをうけた父王が、伽耶国王の王妃になれと命じましたので、こうして訪ねてまいりました」 金首露王はおおいに喜び、許黄玉王妃と末長く、幸せに暮らしたという。 この説話によると、許氏は「阿踰★(「施」の方をこざとへんに)国」つまり外国から訪れたように描かれているが、これは始祖を神奇的に粉飾したと見られている。 史実はどうか。許氏一族は伽耶建国の前後に生まれ、2000年の長い歴史を持っている。 古文献「典古大方」には、許氏について、「金首露王の伽耶が滅びると、(その)子孫は居場所を失って各地へ散らばり、新しい居住地を本貫とするようになった。(こうして)元の土地に残った子孫は金海を本貫とし、他所へ移った人々は河陽、泰安、漢山、陽川をそれぞれ本貫とした」とある。 ここで一つの疑問が生じよう。わが国は父系で、子孫はみな父親の姓をつぐが、許氏はなぜ母親の姓をつけたのか、という点だ。 それについて、金首露王の太子や上の王子らは金姓をついだが、末の王子2人は王妃の許姓をとったという説がある。興味をひかれるが、確証はない。 つぎに、陽川(ヤンチョン)許氏の始祖は許宣文である。彼は代々、農業を営む大地主であったが、高麗の太祖・王建が後百済と戦い、食糧不足に苦しんでいるのを知ると、倉庫の穀物を全部提供した。 そして高麗軍を手厚くもてなし、その勝利に貢献したので、王建は彼を陽川の村主にしたという。 李朝時代の卓越した医学者で、名著「東医宝鑑」を編述した許浚(ホ・ジュン)、そして、名高い女流詩人・許蘭雪軒(ホ・ランソルホン)と、その弟にあたる、名作「洪吉童伝」の作者・許ンm(ホ・ギュン)も、同じ陽川許氏の出身である。 金海許氏の始祖は許★(王偏に炎)(ホ・タム)であり、河陽(ハヤン)許氏は許安康、泰仁(テイン)許氏は許斯文(ホ・サムン)、咸昌(ハムチャン)許氏は許従恒で、やはり高麗の官人が多い。次回は高氏・良氏・夫氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家) |