ウリ民族の姓氏−その由来と現在(24)

晋州姜氏の始祖は高句麗武将

種類と由来(11)

朴春日


 姜氏の本貫数は100余と見られるが、分類上ではやはり著姓に属し、その氏族は多い方である。

 ところで、姜氏の族譜の中には、その祖先を中国の神農(シンノン=じんのう)としている例が少なくないという。

 神農とは、古代中国の伝説上の帝王で、初めて民衆に農業を教え、医薬をつくり、卦の64爻(こう)をつくったとされる。そして、その一族が姜水という川のほとりで住んだことから、「姜」姓が生まれたというのである。

 わが国の姜氏の祖を、なぜ中国の架空の人物と結びつけたのか。それについて南北の歴史学者は、李朝の頃、姜氏一族がつくり上げた物語、と見ているようである。

 では、姜氏の歴史をたどってみよう。最も有名なのは晋州姜氏で、その始祖・姜以式(カン・イシク)は高句麗の有力な武将であった。

 族譜によると、彼は612年、隋の煬帝が113万の大軍を動員して高句麗を侵略したとき、兵馬元帥(陸軍司令官)として勇敢に戦い、勝利を収めたという。

 これは愛国名将・乙支文徳(ウルチ・ムンドク)将軍の総指揮のもと、高句麗軍が勝ち取った「薩水(サルス)の大勝利」である。

 同じく晋州姜氏の後裔に、高麗時代の武将・姜民瞻(カン・ミンチョム)がいる。彼は契丹族の第3次侵入のとき、愛国名将・姜邯賛(カン・ガムチャン)将軍の副司令官として戦い、大きな功績を残した。

 高麗の「功臣閣」には、歴代の功臣とともに、姜民瞻の肖像画も掲げられ、末長く顕彰されたという。

 さて、わが姜邯賛将軍である。将軍は衿川(クムチョン)姜氏の出身で、始祖は新羅時代の姜餘清(カン・ヨチョン)にさかのぼる。

 その4世孫に姜弓珍(カン・クンジン)という高麗建国の功臣がいた。太祖・王建の信任厚く、功臣称号も授与したが、その息子が姜邯賛将軍だったのである。

 少年時代、学問に熱中した将軍は科挙に首席で合格する秀才。その顔立ち、体つきも繊細で、とても武人になるとは思えなかったという。

 しかし、祖国存亡の危機に直面したとき、彼は奮起して陣頭に立ち、卓越した戦術を駆使して、数十万の契丹侵略軍を鴨緑江と亀城(クソン)でせん滅。わが国の反侵略戦史に輝かしい1ページを記したのである。

 姜邯賛将軍の17世孫に、姜碩期(カン・ソクキ)という李朝の文臣がいる。彼は領議政(首相)を務めた人物である。

 そのほか、主な姓氏の始祖を見ると、安東姜氏は姜世胤(カン・セウォン)、白川姜氏は姜公輔(カン・コンボ)、海美(ヘミ)姜氏は姜斎老、同福(トンボク)姜氏は姜遇文、光州姜氏は姜夢龍で、高麗時代の官人が多い。次回は許氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家)

日本語版TOPページ

 

会談の関連記事