ウリ民族の姓氏−その由来と現在(23)

徳川幕府との外交で話題の趙氏

種類と由来(10)

朴春日


 昔の人は「趙」という漢字を見て「ナラ(国)趙(チョ)」あるいは「ソ・ウォル・チュ(小・月・走)趙」と読んだそうである。

 前者は古代中国の国・趙で、後者は趙の字を分解したもの。たぶん趙氏の祖先が、己の漢字姓を覚えやすくと考えたのだろうが、むろん中国の趙とは関係ない。

 趙氏の本貫数は210前後と見られるので、種類からいうと著姓に属する。そのうち最もよく知られているのは豊壌(プンヤン)趙氏である。

 始祖・趙巌(チョ・アム)は高麗の太祖・王建から「孟(メン)」という名を下賜された功臣で、のちに宰相級まで昇格した人物である。

 この門閥の名をより高めたのは、李朝末期に王妃「候補」を2人出したことで、まず第21代英祖の世子・真宗(追尊)に嫁いだのは趙文命の娘であった。しかし夫が早世したので、正式な王妃にはなれなかった。

 もう一人は趙萬永の娘で、第23代純祖の世子・翼宗(追尊)に嫁いだが、やはり夫が早世したので「趙大妃」と呼ばれ、つぎの王・憲宗を生んでいる。

 その憲宗時代(1835〜49)、豊壌趙氏の権勢は絶大であったが、後継ぎがいないため安東金氏に権座を奪われた。だが趙大妃は興宣大院君と謀り、つぎの王位に高宗をつけることに成功した。李朝最後の王である。

 平壌趙氏の始祖は趙春で、高麗が中国の金を討つとき、上将軍として参戦したという。また1135年の「妙清の反乱」時、平壌留守(地方官)の趙匡(チョ・グァン)、趙昌言が記録に残り、高麗末に活躍した趙浚(チョ・ジュン)も知られている。

 興味を引くのは、徳川幕府との対日親善外交で活躍した趙氏が多いことだ。まず李朝・仁祖時代、第5次朝鮮通信使(1643年)の副使・趙絅(チョ・ギョン)は漢陽趙氏の出身。つぎに孝宗時代、第6次通信使(1655年)の正使・趙★(王偏に行)(チョ・ヘン)は豊壌趙氏。粛宗時代、第8次通信使(1711年)の正使・趙泰億は楊州趙氏。英祖時代、第11次通信使(1764年)の正使・趙★(「巖」から山を抜き日編を入れたもの)(チョ・オム)は、豊壌趙氏の出身である。

 李朝政府は毎回、選りすぐりの文官や学者を日本へ派遣したが、通信使の正使には正3品の堂上官を、副使に正3品の堂下官を任命。製述官(文書担当)は家門に関係なく、優れた文人・学者を起用している。

 これは徳川幕府が豊臣秀吉の朝鮮侵略を謝罪し、唯一朝鮮とのみ国交を持った姿勢に対する信義の表明であったといえよう。

 主な始祖を見ると、漢陽趙氏は趙之寿、楊州趙氏は趙岑(チョ・グム)、林川趙氏は趙天赫、白川趙氏は趙之★(「燐」から火偏を「しんにょう」)(チョ・ジリン)、横城趙氏は趙膽(チョ・チョム)、河東趙氏は趙★(王偏に官)で、高麗王朝の官人が多い。次回は姜氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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