市井の人々を愛し、世界を旅した画家

故 中村百合子さん

平壌で個展が夢だった

板門店では人民軍兵士に守られてスケッチした 開城(ケソン)油彩P20

 昨年9月、一人の女性洋画家がとわの眠りに就いた。中村百合子さん。享年68歳だった。毎年、開かれている東京・銀座の個展開催の前夜のことだった。16歳で行動美術展に入選、作家・司馬遼太郎の絶賛を受け、衝撃的な画壇デビューを果たして以来、行動する画家として世界を駆け抜けた生涯だった。

◇                         ◇

 中村さんは少女の頃から、大陸に憧れて、いつも世界地図を飽かず眺めていた。「スケッチブックを買って貰えなかったので、砂の上に絵を書きまくっては、砂漠の国に思いを寄せていた」とよく語っていた。大学に入って本格的に洋画を学び、卒業後、教職に就くが、砂漠への夢は捨てがたく「狭い日本列島を飛び出していった」。

 20代の終わりに同僚の教師・松村吉彦さんと結婚。パートナーの深い理解を得て、欧州からアフリカ、中東、インド、中国、朝鮮という西から東への30余年に及ぶ一人旅が続いた。その間、中村さんは、パリ、ロンドンなどで暮らし、英国国立ロンドン芸術大学大学院プロフェッサー科を卒業。ひたむきに旅し、描き、学ぶ生き方を貫いた。

 そうやって得た「自己の確かな眼」で古今東西の歴史をとらえ、市井の人々へのくめども尽きぬ愛と興味を抱き続けたのである。

 リビアでは、カダフィ大佐と親交を結び、インドではマハラージャに求婚されたことも。外国では「肘鉄のユリコ」の愛称で親しまれた。

◇                         ◇

 シルクロードを西から東へたどった旅の終焉は朝鮮民主主義人民共和国だった。10年前の91年秋のこと。紅葉の金剛山や朝焼けの大同江を早朝散策し、「息をのむように美しい平壌の朝」を描いた。

 約10日間の滞在中、人々とも心を通わせながら描いた本画とスケッチは約90点。中村さんがお気に入りの場所を見つけてペンを走らせていると、たちまち人だかりができて、学生たちと英語やフランス語で言葉を交わした。「なぜ、そんなに早く、描けるの」「まるで魔法みたい」と驚きの声が上がったという。

 「人間を見る眼」は的確だった。87年に南側から板門店に入った時は、南の警備兵らが南北の対立を煽るようなことばかりを言っていたが、北の人々や兵士は人なつこかったと語っていた。

 「朝鮮人参ののどかな取り入れ風景を見て、希望がわいてきた。人民軍兵士はカッコイイし、親切だし。『南男北女』という言葉があるがあれはウソ。北の方がゆったりしていて、人間がいい」

 アリランを歌って、オンドルに寝そべった千年の古都・開城の風情を特に気にいっていた。「とうがらしをつぶす音、粟をこねるひきうすの音、黒い屋根の間から突き出したオンドルの煙突の一つ一つの表情」を生き生きと描いた中村さん。

 その一方で、平壌の美術館で見た絵の印象について「どの絵も美しく、品格があるが、どの絵も似ていて、物足りなさを感じた。人間の葛藤、苦しみ、悩み、うずき、叫びを画面にもっと叩き込んでほしい」と注文も寄せていた。

 北への偏見が渦巻く日本に帰って来て怒り心頭で語った。「朝鮮に行って悪口を言う者がいる。バカほど評論家になって、つまらないことを言うものです」と。

◇                         ◇

 日本に戻ってから大学や地域で絵を教えながら、教え子たちに「住む世界は違っても人間はみな同じ。偏見や曇った眼で隣国を見るほど愚かなことはない」と言うのが口ぐせだった。

 豪快な笑顔と「大好きな酒」で、世界中の誰とでもすぐ心を通わした中村さん。夫の松村さんによると「百合子は亡くなる前夜、もう一度、平壌に行って、個展を開きたい、もしものことがあれば、平壌に絵を寄贈してほしいと言い残しました」と言う。

 松村さんは百合子さんの未完の夢をぜひかなえてやりたいと、静かな意欲を燃やしている。(朴日粉記者)

日本語版TOPページ

 

会談の関連記事