「海峡を越えて」―前近代の朝・日関係史―(16)権仁燮

元の日本侵略阻止した高麗

特筆される「三別抄軍」の闘い


高麗・元・日本

 916年、分裂状態にあった後期新羅の混乱を収拾する形で高麗が建国された。高麗はその存続期間、金属活字をはじめとする印刷技術や青磁など、今も世界に冠たる文化を創造した。

 しかし、建国から2世紀も過ぎた頃には国内政治に混乱が生じ、その隙をついた元により自主権を大きく制約されるようになった。

 世界制覇をもくろんだ元のフビライは高麗人民を強制動員して日本への侵略をはかった。

 日本では貴族統治の時代から本格的な武家による支配がはじまったばかりであった。「鎌倉幕府」である。

 元は高麗に対して度々日本侵略の先導を強要したが、その度に海路が困難であるという理由でこれを断念させていた。しかし1268年、元は最終的に日本遠征の準備を推し進めさせた。この間、高麗から日本へ数度の使者と、往来する僧や商人などによって元の日本侵略意志は鎌倉にも伝えられていた。

 元の侵略に反対して戦っていた三別抄軍も圧倒的優位を誇る元の兵力の前に鎮圧された。こうして高麗国内の抵抗を押さえた元は本格的に日本侵略に乗り出した。1274(文永11)年、兵3万、水夫1万5千、船900隻で太宰府近くの水城まで攻め込んだ。しかしその夜、九州一帯に強風が吹き、博多湾内にあった遠征軍は大きな痛手を受けて高麗の馬山浦に退却した。

 やがて、南宋制圧を終えた元は再び日本侵略に取り掛かった。1281(弘安4)年5月に高麗から、6月に南宋からの大群が博多湾に終結したが、7月1日夜半からの暴風雨のため再び大打撃を受けて退却した。

 日本軍民の果敢な戦いと、偶然の暴風雨という自然現象は元軍の撃退に大きな役割をはたした。しかし、忘れてはならないのは高麗や南宋、安南(ベトナム)の反元闘争である。

 高麗では元の侵略に対して、最終的には鎮圧されはしたが、三別抄軍が果敢に戦い、さらには「百姓は皆草や木皮を食べる」ほどに困窮しながらも高麗人民の元による造船、食糧・水夫などの徴発に反対する闘いなどとあわせて、南宋、安南の闘いによって、日本に元の侵略に対処する時間的余裕を与えた。また、他国侵略に動員された高麗の人民の厭戦気分は、少しの風で戦場を放棄させることになった。

 元という超大国を相手にした自国の自主独立を守る闘いが、日本への元の侵略を阻止したもう一つの大きな要因となったのである。

 つまり、「神風」は自然の現象にのみあったのではなく、超大国に自主権をじゅうりんされた国々の人民の闘争、元の国内の反戦意識にこそあったのである。

 こうして、世界的に版図を広げた元ではあったが、最終的に日本侵略を諦めざるを得なかった。

「歴史の窓」

三別抄軍

 もともと三別抄軍は国内の治安維持のために組織された軍であった。しかし、1270年5月、元との講和の受け入れに反対し、徹底抗戦を主張してほう起した。部隊は江華島を拠点として新たな王を推戴し、政府機構を整備し、反元政権を樹立した。8月には本拠を珍島に移し、西南海一帯と全羅・慶尚両道の穀倉地帯や、海上の拠点である済州島をも支配下に置いた。しかし、元軍と高麗政府軍による度重なる攻撃と、有力指導者の戦死などもあって1273年4月には闘いの幕を閉じた。この闘いは、高麗人民の反元独立意志を示したもので、さまざまな制約を受けながらも高麗が独立を保つ原動力の一つとなった。

日本語版TOPページ

 

会談の関連記事