ウリ民族の姓氏−その由来と現在(22)

古朝鮮時代に始まる慶州鄭氏

種類と由来(9)

朴春日


 鄭氏の本貫数は210前後と見られるが、その歴史は長く古朝鮮時代に始まる。なかでも慶州鄭氏が最も古く、ここから枝分かれした有名氏族も多い。

 史上「忠臣の鑑」と称えられた鄭襲明(チョン・スプミョン)は、鄭宗殷を始祖とする迎日(ヨンイル)鄭氏の出自で、高麗の仁宗に忠誠を尽くした。彼は太子の教育係であったが、太后が弟王子を次の王にしようとしたことに反対。世襲を守って太子を王座に上らせた。

 ところが、新王・毅宗(イジョン)は父王の、「鄭襲明の言に従え」という遺言に背き、連日、宴会を開いて妓女たちの歌舞音曲にうつつを抜かした。鄭襲明は、干ばつと疫病に苦しむ民百姓を救うよう厳しく諌めたが、毅王は名勝地に華麗な亭閣を建てて遊び惚けた。

 絶望した鄭襲明は、ついに毒をあおいで自殺した。冷遇された武臣らの憤懣は「鄭仲夫の乱」となって爆発。結局、毅王は倒された。

 その鄭襲明の後孫に、高麗末の有名な宰相であり学者であった鄭夢周(チョン・モンジュ)がいる。彼は女真族との戦いで勇名を馳せ、対明・対日外交でも優れた英知を発揮した。

 とくに倭寇(わこう)禁圧の王命をおびた彼は、1377年、九州探題・今川貞世と折衝し、海賊禁圧と捕虜の帰還を実現した。今川は鄭夢周の学識に感嘆し、日本の文人は先を争って彼の詩文を求めたという。

 また、鄭★(山の下に立)(チョン・リプ)は李朝・仁祖時代、第3次朝鮮通信使の正使として1624年に訪日し、朝・日親善に寄与した。名作「関東別曲」の詩人・鄭Kもその後裔である。

 河東鄭氏の始祖は、高麗・明宗時代の武官であった鄭世裕で、その後裔に李朝の高名な碩学であり、宰相も歴任した鄭麟趾(チョン・リンジ)がいる。

 太宗はのちの世宗に、「文は鄭麟趾に、武は洪師錫にまかせれば心配ない」と語ったが、実際、鄭麟趾はわが民族の文字「訓民正音」の創製で指導的な役割を果たし、「高麗史」の編さんでも大きな功績を残した。

 西京鄭氏の始祖は、高麗・仁宗時代の著名な文臣・鄭知常(チョン・チサン)である。また光州鄭氏の始祖は高麗の文官・鄭臣★(尸に邑)(チョン・シンホ)で、その後孫に名作「金剛山図」を描いた画家・鄭★(善に欠)がいる。

 慶州鄭氏の始祖は鄭珍厚、東菜鄭氏は鄭之遠、海州鄭氏は鄭肅、晋州鄭氏は鄭守珪、草渓(チョゲ)鄭氏は鄭倍憐、温陽鄭氏は鄭普天、清州鄭氏は鄭克卿で、新羅・高麗時代の功臣が多い。

 なお鄭氏の族譜の中で、その始源を古代中国の「鄭」国と結び付けた例も見られるが、これは付会である。

 以上で「5大姓」を終え、次の姓氏へ移るが、紙数の都合上、すべての本貫に言及できないので、その点はご了承願いたい。次回は趙氏である。
(パク・チュンイル、歴史評論家)

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