ウリ民族の姓氏−その由来と現在(21)

新羅建国時にさかのぼる慶州崔氏

種類と由来(8)

朴春日


 崔氏の本貫数は320余と見られるが、この中で世に広く知られ、古い歴史を持つのは慶州崔氏である。

 その族譜の多くは、始祖として新羅末期の有名な文人・崔致遠(チェ・チウォン)を挙げているが、実際はもっと古く、新羅建国時の崔氏までさかのぼると考えられる。

 先にも触れたように、古朝鮮の住民は慶州地方へ移住すると、そこで6部(村)をつくって暮らしたが、崔氏が住んだのは沙梁(サリャン)部であった。

 崔致遠はこの村の出身で、12歳のとき唐へ留学し、大勢の応試者を抜いてみごと首席で合格した。彼の英知に感嘆した唐の軍総司令は秘書長に任じたほどである。

 その後、懐かしい故国へ帰った崔致遠は、新羅が支配層の腐敗堕落によって衰退しているのに幻滅し、短詩で「新羅は黄葉なり、高麗は青松である」と嘆いた。

 苦悩の末、崔致遠は中国への事大病に陥るが、それでも昔日の彼を尊崇する人々は後を絶たず、とくに崔氏一族は彼を己の始祖と呼ぶようになったといわれる。

 わが国最初の火薬発明家・崔武宣(チェ・ムソン)は、崔漢を始祖とする永川崔氏の出身である。

 彼は早くから倭寇(わこう)、つまり日本海賊の高麗侵犯を撃退するには強力な火薬が必要だと考え、その製造に心血を注いでいた。ときには中国の李元から知識を得たりしたが、成功するには至らなかった。

 しかし崔武宣はひるまず、家財のすべてを投じ、20年の歳月をかけて1373年10月、ついに火薬の製造に成功したのである。

 こうして彼は1377年、高麗政府に建議して火桶都監(ファトントガム)を設置させ、その責任者となって火薬を製造し、各種の火砲や火器を製作した。

 崔武宣の予想は的中した。1880年、倭寇は500余隻の大船団を侵入させたが、彼は羅世将軍とともに艦隊を率い、火砲の集中攻撃で敵船団を壊滅させる大戦果を上げたのである。

 高麗末期の名将・崔瑩(チェ・ヒョン)将軍は、昌原崔氏の出自と見られるが、倭寇と紅巾賊の撃退に大功があったにもかかわらず、李成桂の「威化島回軍」によって悲劇の死を遂げている。

 通川崔氏の始祖・崔祿(チェ・ロク)は高麗の武官で、その息子・崔雲海と孫の崔允徳は、やはり倭寇との戦いに生涯をかけた愛国的な武将であった。

 高麗の大学者と評された崔沖(チェ・チュン)は、崔子廉を始祖とする大寧崔氏の出である。

 また東州崔氏の始祖は、高麗の功臣であった崔ジュンオン(チェ・ジュンオン)であり、全州崔氏の始祖は崔均、海州崔氏の始祖は崔温、江陵崔氏の始祖は崔必達、忠州崔氏の始祖は崔遇清であるが、そのほかにも歴史に名を残した崔氏は多い。次回は鄭氏である。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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