現場から−チョ美子(長野初中食堂炊事員・61)

「オモニ元気?」が私の勲章

生徒の食事を作り続けて30年


 長男が初級部2年の時、当時の教育会副会長が家に訪ねてきて、昼間だけ、食堂の食器洗いを手伝ってくれないかと言ってきました。当時、長野初中には200人以上の児童生徒がいましたが食器洗い機はまだなく、食堂の仕事をやっていた夫婦だけでは手が足りませんでした。私は家で内職をしていたのですが、「それより多く出すから」と強く勧誘され、引き受けることにしました。しかしその後、食堂の夫婦が辞め、結局、食器洗いを手伝っていたうちの私ともう1人だけが残った形となり、見よう見まねで子どもたちの食事を作り始めました。当時私は34歳。とくに料理が得意なわけでもありませんでした。

 それから30年。日曜日も休日もなく、夏休みも春休みもさまざまな講習などで長野の学校は休む間がありません。その間、ともに働く仲間は増えたり減ったりしましたが、5〜6年前からは私1人になりました。1人だから、熱があっても何があってもお腹の空いた子どもたちを放って休むわけにはいきません。この緊張感が、30年も続けてこられた理由のひとつかもしれません。また何よりも家族の協力がありました。自分の子どもたちをあまり構ってやれなかったのは心残りだけど、7年前に先立った夫は本当によく助けてくれました。

 やめようと思ったこともあります。とくに10年ほど前、当時25歳だった長男が事故死した時は、もう何もしたくなくなりました。その時、ずっと家にこもっていた私のもとを訪ねてきた当時の校長(現在の本部副委員長)が、「長野の子どもたちはみんなオモニの子どもだよ。みんなオモニを待っている」と言いました。それがきっかけとなり、また職場に復帰しました。

 何の資格も知識もない私に大切な仕事を任せてくれ、育ててくれたのは、子どもたちや先生たち、そして同胞、組織です。日本学校卒業の私は、ウリマルもここで学びました。長野の卒業生とその家族、同胞…。それが私の財産です。この30年ここで働いていなければ、もしかしたら金儲けができたかもしれません。でも、それより何より大切なものを、私はここで得ました。卒業生や元教員がここに顔を出し、「オモニ元気?」と言ってくれることが、私がやってきたことへの答えだと思います。

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 献立はその日の天気を見て決めます。栄養のバランスも考え、ぎりぎりに作って温かいものを出せるようにします。幼稚園児はまた別で、1週間分を前もって決めて家庭に知らせます。

 最近、家であまり食べなくなっている朝鮮のおかずも、さりげなく入れるようにしています。キムチもさまざまなものを漬けます。そのためか家ではキムチを食べない子も学校ではよく食べるし、作り方を聞こうと、生徒のオモニから電話が来ることもあります。予算も限られている中、仕入れにも頭を悩ませます。仕入れがうまく行かず、献立に追いかけられる夢を見たこともありました。

 愛情を込めて作った料理をみんながおいしく食べてくれるのが1番です。最近、初級部1年の授業で、学校で1番楽しいことをテーマに作文を書かせたら、半分が食事のことを書いていたと先生から聞きましたが、とてもうれしかった。食堂に来た時の様子を見ればその日の健康状態がわかるし、毎日見ていれば性格や家庭環境までだいたい察しがつきます。だから、子どもたちには必ず声をかけるようにしています。

 先日、功勲炊事員称号を授与されましたが、名誉のために30年やってきたのではありません。過ぎてみれば30年になっていただけで、私にとって何よりの表彰は子どもたちや卒業生、地域同胞がかけてくれる言葉です。昨年ひざを痛めて正直言ってきつい時もありますが、必要とされ、体が続く限り、楽しくやっていきたいと思っています。

 そしていつか、できれば全国の朝鮮学校を愛車のバイクで回ってみたい。実際に自分の目で各地の民族教育の現場を見てみたいと思っています。それが無理でも他校の食堂のオモニたちと交流したい。そんな場がほしいと切に願います。

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