高句麗墳墓と古代出雲 (上) 全浩天
国引き神話の深層と壮大な海の世界
北東アジアシリーズ2001 松江市で開催
古代朝鮮3国を中心に 「環日本海松江国際交流会議」の主催による「北東アジアシリーズ2001」が、去る10月16日に島根県松江市で開かれた。今回は86年に開催された第1回のシンポジウムから大きな節目となる第15回にあたる。このため、これを記念する意味でテーマも「北東アジアのなかの古代出雲―古代朝鮮3国を中心に―」となった。「環日本海松江国際交流会議」は島根県、松江市、島根大学、山陰放送の4者によって構成され、運営されているが朝鮮東海の沿岸諸国との学術、文化の交流による平和と友好親善を一貫して追求してきた。 同会議は発足以来、朝鮮民主主義人民共和国と在日朝鮮人の学術研究者を招いて学術文化の交流をはかってきた。この度は在日の研究者である全浩天、李成出の両氏と上田正昭京都大学名誉教授、西谷正九州大学教授、申敬徹釜山大学校教授、啓明大学校李炳魯副教授がそれぞれ報告を行った。
高句麗の墳墓の変遷にふれながら古代出雲について語りたい。このテーマにかかわってまず、「出雲風土記」の国引き神話の深層には、古代出雲が朝鮮半島の東海と日本海である北ツ海をめぐる環東海つまり環日本海の壮大な海の世界が広がっていることを考える必要がある。いいかえれば、この深層には環東海、北ツ海の世界と結びついた人々の渡来と文化の対岸交流がはらまれている。同時にこのことは、6、7世紀の頃、北ツ海に生きる人々が朝鮮半島からの渡来とその文化や信仰をどのように認識し、伝えていったのかという問題でもある。このような視座にしたがうならばこれまでしばしば論じられ、分析・研究されてきたような古代出雲についての認識にとどまることはできない。 語り部の集団が伝えてきた国引き神話は出雲地方の古くからの農耕的祭祀のなかで成熟・発展し、完成した形姿であり、それはまた、意宇(おう)を中心とした出雲国造をはじめとする支配層が描いた出雲像と重なって最終的に成立したものであるという認識にとどまることはできない。近年来の考古学上の発掘調査と研究は、朝鮮東海と日本列島の北ツ海をめぐる渡来と対岸交流によって、朝鮮半島と古代出雲との関係が濃密であったことを語ってくれる。 環朝鮮東海・北ツ海を通じた渡来、対岸交流は、地名や朝鮮系神々への信仰の足跡をうつす伝承、文献記録にとどまらず発掘調査された墳墓などの豊かな遺跡や多様な遺物によって、その起源、内容やその広がりが推定される。この場合、古代出雲における高句麗・新羅文化との重層性であるが、新羅との関係を示すだけでなく高句麗との関わりを語ってくれる遺物遺跡があることに注目する必要がある。 4世紀から6世紀にかけて形成された安来市の荒島古墳群の仏山古墳出土の獅噛(しか)み環頭柄頭、鉄鏃、杏葉(ぎょうよう)、轡(くつわ)などの武具・馬具の性格、つまりどこからもたらされたのかということが問われる。 また、高広横穴古墳群から発見された「高麗剣」とよばれる金銅製双龍環頭大刀などは高句麗をふくむ朝鮮半島との関係を証してくれる。なかでも安来市の鷺ノ湯病院跡の横穴古墳から出現した太環式(たいかんしき)耳飾りや環頭大刀などは高句麗からの渡来とみなされる。 金製の太環式耳飾りについては、細環式(さいかんしき)耳飾りと異なって極めて尊貴性が高く、所有者の身分の高さと威光を強烈に示し、その階級的性格と政治的性質を持っている。 金製耳飾りは太環式と細環式の2種類があるが、日本の古墳から出土するのはほとんど細環式である。しかもその数はおびただしく多く、とても数えられないと言われている。反面、太環式は出土していない。それでは、なぜまったく例外的で唯一の太環式耳飾りが安来市の横穴から出現するのだろう。 日本ではほとんど見られない太環式耳飾りは新羅の都・慶州の王墓、王族や大貴族の大形円墳や双円墳から数多く出現している。それらは5、6世紀の大形墳墓である。 さらに着目しなければいけないのは支配層の墓から出土しているばかりでなく、高句麗の支配下、影響を強く受けている地域において現れる。5世紀から始まる高句麗軍の南進と新羅王都・慶州における駐留のもとで太環式が製作され、盛んになった。高句麗の進出と支配は、洛東江河口付近まで及んだが、このため伽耶地域の首長墓からも太環式が現れる。 太環式が高句麗の影響や支配と深く結びつくことは、百済における太環式の出現時期がそれをよく語っている。 百済が高句麗の攻撃を受けて第21代の蓋歯王が殺害されて都を百済南部の熊津(うんじん)、現在の公州に還したのは475年。公州の王墓や大貴族の墓からは太環式は出ていない。5世紀後半からの高句麗と新羅の攻撃によって失われた百済中部(忠清北道の清州、清原)地域から太環式耳飾りを出土している。 |