ウリ民族の姓氏−その由来と現在(13)

姓氏使用、前進遂げた李朝時代

起源と変遷(11)

朴春日


 李朝時代に入って、姓氏を使用する社会的動向は大きな前進を遂げた。それを裏づけるものは、第1に、各氏族による「族譜(チョクポ)」の作成であり、第2に、姓氏に関する記録文献類の出現である。

 わが国最初の体系だった「族譜」とみなされているのは、世宗5(1423)年刊行の文化柳氏の「永楽譜」であり、現存最古の「族譜」は、1476年発刊の安東権氏の「成化譜」であるといわれている。

 また各氏族の「族譜」も盛んに編まれたが、それらを網羅した系譜書としては、「青丘氏譜」「萬姓大同譜」「朝鮮氏族統譜」などの刊行があげられる。

 では李朝時代、わが国の姓氏数はどのように記録されていたであろうか。次に列挙する。

 まず1454年刊行の「世宗実録」地理志には265姓とあり、李宜顕(リ・ウィヒョン。1669〜1745)の「陶谷叢説」には298姓、李徳懋(リ・ドクム。1741〜1793)の「★(央の下に皿)葉記(アンヨプキ)」には486姓、そして1782年刊行の「増補文献備考」には、496姓となっている。

 次に本貫(ポングワン)の数を見よう。

 本貫は始祖の発祥地(名)であり、「郷貫(ヒャングワン)」、あるいは単に「本(ポン)」ともいうが、これは当初、両班貴族が自己の血統を誇るため、漢字姓の前に始祖の出身地名をつけたことから生まれたとされる。

 こうして、たとえば「金海(キムヘ)金家」「全州(チョンジュ)李家」「密陽(ミルヤン)朴家」などというが、それとは別に、新羅と伽耶などの建国神話や伝説に基づいて本貫を定めた氏族もある。

 史料によれば、李朝時代、最も多い本貫は金家(氏)で499。つづいて李家の451、崔家の326、朴家の309、張家の245、林家の216、趙家の200などとなっている。反対に、最も少ない単一本貫は、成家、車家、慎家などである。

 李朝後期に入り、同じ本貫に属する人びとの数が増大すると、互いに自己の血統と「貴賎(せん)」を競い合い、その一族が誰の子孫であるかを問いただす風潮が強まった。

 そして、姓氏と本貫が同じ「同姓同本」の男女の婚姻は、古来のきびしい慣習から、決して認められなかったのである。

 李朝末の1894年、開化思想を抱く革新的な官僚たちが内政改革を断行し、わが国の頑迷な身分制度は音を立てて崩壊した。その背景には外圧と農民大衆の革命的進出があった。

 こうして封建的な科挙制度の廃止、両班と常民の差別撤廃、奴婢(ノビ)の解放、人身売買の禁止、女性束縛の打破などの進歩的な措置が講じられた。

 しかし、こうした民主的諸改革も結局、軍国日本の侵略によって圧殺されてしまったのである。(パク・チュンイル、歴史評論家)

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