祖国の懐で作曲家に

カーネギホールで演奏、管弦楽「慶尚道アリラン」

41年ぶりに訪日した李旱雨さん


作曲家の李旱雨さん
 実に41年ぶりの日本訪問である。東京で開かれた第29回音楽評議会(IMC)総会に出席するため、朝鮮民族音楽委員会代表団の一員として、活動する傍ら、懐かしい生まれ故郷・伊丹市などを訪ね、家族、親友たちとの再会も果たした。

 李旱雨さんは祖国を代表する作曲家の1人。97年には朝鮮の作曲家としては初めての芸術楽士の学位も授与された。現在は尹伊桑音楽研究所作曲室長として、祖国統一をテーマにした作曲に専念している。

 李さんは、43年、伊丹市の「朝鮮部落」に生まれた。4男2女の4男。アボジは古物商だった。貧しい暮らしぶりが記憶に残っている。

 「でも、そんな貧しさの中で、不思議だったのは、当時はまだまだ珍しかったピアノがわが家にあって、私は3歳の時から、長兄の厳しいレッスンを受けていたのです」

 後にシャンソン歌手として活躍した長兄や次兄の音楽プロデューサー李負J氏の影響の下、旱雨さんの音楽的な土壌が育まれていった。「大阪音大の学生だった兄が夜遅く帰宅した後に、寝ている私を起こして、ピアノを弾かせるのです。すこしでも間違えると竹刀で私を叩くので、泣きながら練習をしていたのを今でもよく覚えています」。すでに名手の誉れ高かった次兄からも、アコーディオンを習った。伊丹市立高校1年の時には、朝青の活動の一環として、日本の学生たちに「金日成将軍の歌」や、当時の3大フォークソングと呼ばれたオンヘヤやフルラリなどを教えたのも忘れられない。

 人生の一大転機が訪れたのは、翌年、神戸朝高2年に編入した後のこと。祖国への帰国事業が始まったのを受けて、両親は帰国を決意。6人の子供のうち、まだ学生だった旱雨さんら3人を連れて帰国したのは、60年4月(第19次)だった。次兄が大切にしていたアコーディオンを胸に抱えて、「祖国で作曲家になりたい」という一念だった。

 帰国後、江原道高等中学校で学んだ後、江原道芸術団ソリストとして音楽の道の第一歩を踏み出した。

 しかし、李さんは作曲家の道を諦めなかった。演奏活動の傍ら自作の曲を朝鮮音楽家同盟にコツコツと送り続けた。その1曲が、対象新人(音楽の才能に恵まれた新人を発掘する制度)の全国5人のうちの1人に選ばれるという幸運に恵まれた。そして、祖国を代表する作曲家・人民芸術家の金玉成氏と李建雨氏らに直接作曲指導を受けることになった。

 「本当にラッキーでした。専門教育を日本で受けられなかったので、和声法、管弦学法、作曲法などを本格的にマンツーマンで学び、プロの作曲家としての地歩を築くことができました」

 78年にはさらに全国音楽コンクールで、自らが編曲したアコーディオン協奏曲「決戦の道へ」を演奏して入賞。この曲は96年から全日本国際アコーディオンコンクールの課題曲にも選ばれている。こうした華々しい活躍が高く評価され、81年から平壌音楽舞踊大学作曲学部・博士課程に入学。

 「国家から授業料、生活費をいっさい給付され、家族には何の負担もかけずに学んだ。大学では7年在籍して、その間にはソ連公演など外国での演奏会に参加したり、『世界アコーディオン独奏曲集』、『室内楽曲集』なども相次いで出版しました」

 さらに李氏の代表作、管弦楽「慶尚道アリランをテーマとした幻想曲」も発表。この曲は国際的に活躍中の甥の指揮者・金洪才氏によって92年、東京交響楽団(東京芸術劇場)によって初演され、ニューヨーク・カーネギホールなどでも演奏された。

 自らの足跡を振り返りながら李さんはこう語った。

 「民族の分断の痛みを誰よりも切実に感じている元海外同胞2世として、祖国統一の曲を作るのは、私の一生のテーマ。それはまた、帰国するまでは作曲法すら知らなかった私をこれまでに導いて下さった亡き主席の恩に報いる道でもあります」(粉)

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