ウリ民族の姓氏−その由来と現在(10)
国王の賜姓、重要政策とした高麗
起源と変遷(8)
朴春日
高麗の太祖・王建(ワンゴン)は、建国後18年の歳月をかけて後期新羅・後百済などを統合し、936年、朝鮮史上初の民族統一国家を樹立する歴史的偉業を達成した。
以来約500年間、この高麗が旧高句麗の後をつぐ東アジアの強大国、先進文明国として、「KOREA」の名を世界中にとどろかせたのは、周知のとおりである。 国土統一後、高麗王朝は新たな支配体制を構築しながら、旧高句麗の領土回復を国是とし、渤海(パルヘ)が契丹侵略者に滅ぼされると、その王族と大臣、学者と文人、民衆ら10余万人を受け入れ、厚遇している。 このように、高麗王朝が民族の大団結を図るうえで、国王の賜姓を重要施策の一つとした事実は注目されてよい。わが国の「東国輿地勝覧」(1481年)はつぎのような興味深い史話を伝えている。 統一国家の成立当初、木川(現・忠清南道天安郡)地方で、百済系の遺民たちがたびたび騒乱を起こし、高麗政府の命令によく従わなかった。 そこで太祖・王建は、彼らを懲らしめるために、「豚(トン)・象(サン)・牛(ウ)・★(ケモノ偏に章)(チャン)」という動物名を姓氏として下賜した。 これに驚いた百済系の遺民たちは、太祖の意図を重く受けとめ、後日、同じ音の「頓・尚・于・張」への改姓を願い出て許可されたという。 この史話は、姓氏伝説の色合いも濃いといえるが、実際に太祖・王建は、国土統一の功労者や忠臣たち、そして帰化者らに賜姓を行い、改姓を命じたりしている。 たとえば、渤海滅亡後、太子の大光顕が救いを求めて亡命すると、太祖は彼に王氏姓を下賜して王族の処遇をし、忠烈三妃斎国公主について帰化した蒙古人には印侯(インフ)という姓を与えている。 また、太祖に忠実であった新羅の金幸は、権能に長けていたとして権氏に改姓させられるが、これが後世の安東権氏の始祖だといわれる。 こうして高麗王朝では、歴代の王君も賜姓と改姓など、姓氏に対する施策を重視しているが、その典型的な事例は、第11代・文宗9(1055)年のとき、姓氏を持たない者には科挙に応試する資格を与えない、という法令を布告したことである。 高麗の科挙とは、第4代・光宗9(958)年から実施された官吏登用の国家試験であるが、その応試資格に姓氏を持つ者という条件をつけたことは、もはや姓氏が王侯貴族らの占有物ではなく、社会的にかなり普遍化していた事実を物語るであろう。 その意味で、李朝の実学者・李重煥が「択里志」(1714年)で、わが国では高麗時代に入ってから、ほとんどの人びとが姓を持つようになった、と指摘していることは重要である。(パク・チュンイル、歴史評論家) |