地名考/故郷の自然と伝統文化

ソウル−E京畿道

別称「畿旬」、李朝期に定着 点在する山城

司空 俊


 京畿道とは畿のある地域である。別称「畿旬」「畿中」「京畿」、また忠清道と併せて「畿湖」ともいう。畿とは「王城周囲500里以内之地」、つまり王城から周囲500里=20キロ(朝鮮での一里は400メートル)以内の地を意味する。

 伝説によると百済時期、温祚が広州で河南慰礼城(河の南の城という意味)をつくった後、京畿道一帯は百済の領土となった。

 京畿道が行政単位になったのは開城が首都であった1019年以降で、ソウルが首都であった李朝時代に地名が定着した。

 京畿道はソウルを囲み近郊農業が盛んで、地価は水田よりも畑地の方が高い所もあるという。伝統的に農業研究が盛んで農科大学がある。

 1790年代に造られた「西湖」は潅漑用貯水池で観光地になるほど美しいという。

 老年期の地形が中部と東部付近に、準平原が西南方に見られる。そこから低くなって驢州、利州、富平、平沢、安城あたりまで平地が広がる。従って河川も平衡状態に達して浸蝕力が小さい。そのため谷平地が入り乱れ浸蝕盆地列が見られる。

 代表的な河川は漢江、臨津江、安城江である。この流域には平野が広がっている。山地に樹木がなく、天井川が多いので、洪水が起きやすい。

 水原はソウルから44キロで1時間ほどで行ける。古くは随城、樹城、水城、華城、漢南と称し、高句麗時代には買忽、新羅時代に水城郡、高麗時期に都護府となり、李朝時代の1413年には4鎮(他は広州、開城、江華。鎮というのは軍隊の駐屯地という意味)の1つになる。

 一帯は農業が盛んで、古跡が散在する。李朝22代王の正祖が築いた水原城、農業用の西湖、水原を貫通する華川にかかった7つの水門をもつ楼閣で、かつては7つの滝があった華虹門、洗馬台、武術を鍛えた練武台、城門の八達門などがある。

 水原城はソウルの南方防衛のため、1794〜96年に造られた。城は標高250メートルほどの八達山の山頂をめぐる平山城形式で周囲が五`、高さは3メートル前後、4つの門で外部との交通をなした。朝鮮の城郭の構造および特徴を研究する重要な文化遺産である。

 高陽の幸州山城址は漢江本流を眼下に望む徳陽山にあり、豊臣侵略軍を打ち負かした地である。この時の戦いで女性がマエカケで石などを運び、勝利に導いた。それでマエカケを朝鮮語で「ヘンジュチマ=幸州チマ」というようになったという。

 ソウル南方24キロ、広州の南漢山(460メートル)に山城がある。山腹に城壁が築かれた南漢山城である。百済初期の城で始祖・温祚が築城し、新羅文武王が山城を築き、日長城ともいわれた。のちに、李朝王・仁祖が城をより強固にした。(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員)

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