地名考/故郷の自然と伝統文化

ソウル−C漢江と建築物

再建され王宮など残る遺跡

司空 俊


 ソウルは、漢江を抜きにして語ることは出来ないだろう。

 太白山脈の五台山に源を発した漢江は、ソウル近くに至ると川幅は1キロになる。南には南山、北には北岳山、北漢山(三角山=836メートル)と、花崗岩の峻嶺(しゅんれい)な山が剣を並べたように位置し、四方が山岳丘陵に囲まれている。ここは独立門から16・7キロの位置にあり、文化遺跡が数多く残っている。

 また、慶福宮(1395年建立、1868年再建、約13万坪)、南大門(1396年建立、1448年補修)、東大門(1968年再建)、独立門、昌徳宮、秘苑、徳寿宮、光化門、慶会楼などの朝鮮式建築物を訪れる人が後を絶たない。

 パゴダ公園、南漢山など古跡も数多い。ソウル国立中央博物館、竜仁民俗村も人気がある。しかし、記憶に納めておきたいのは1593年、豊臣家臣の浮田秀家がソウルから退却するとき、王宮など、めぼしい建築物を全部焼き払って廃虚にしたことである。

 南大門の本名は崇礼門、五行説では礼は火に当たる。その昔、冠岳山は火山と考えられていたので、この火という字の入った門をくぐって城を火事から守ったという。南朝鮮の「国宝」第1号である。城壁は日本が壊したので門だけしか残っていない。

 東大門の本名は興仁之門である。地盤が沈むので之(地に通ずる 之 と 地 は、朝鮮語の発音では共に チ である)という字を加えて、土地の沈降をくい止めたという。五行説では「興仁之門」の「仁」という字は木に属し、木はさらに東に通じるので、東大門と通称されるようになったという。

 粛清門(北)は暗門である。この門は封建時代は常に閉ざされたという。この門を開くと城内の婦女の中から貞節を捨てる者が出るという迷信からである。

 景福宮は1395年に白岳山麓に竣工した王宮であったが、壬辰倭乱時に消失した。その後270余年間、礎石や慶会楼の石柱が残るのみであった。

 慶会楼は、王が外国使節のために宴会を開いたところである。1865年、大院君が本来の規模と様式で復元したものが現存の景福宮である。

 光化門は慶福宮の南に位置していた。また、13層塔がある。これは日本人が開城にあったものを日本に持ち去ろうとして、ここまで持ってきたが、果たせず置き去りにしたものであるという。

 敦義門は紫霞門ともいわれ、門の上に木造の鶏が飾られている。風水の迷信により、この一帯の地形がムカデに似ているので、これを押さえるために飾ったという。鶏がムカデを獲って食べるからである。

 昌徳宮は離宮で、270年間王宮として使用された。壬辰倭乱時に放火されたが再建された。正門が敦化門で580年以上の歴史を刻んでいる。仁政殿秘苑は繊細な造園美がすばらしく、訪れる観光客の名所になっている。(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員)

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