地名考/故郷の自然と伝統文化
ソウル−B地形の特徴
盆地で峠が多い自然の城郭
司空 俊
白頭山の精気を受けて東海岸を南下した太白山脈は、ソウルの北辺に至ると北漢山を外壁とし、さらに南下して北岳山、鷹峰、南方に南山、西方に仁旺山と白蓮山と鞍山を結ぶ山稜線を内壁となす。
東方にも山稜線があり、東北方には駱駝山とつづく。旧市街地は南方に開け、漢江は西に流れているが、自然濠をなしている。ソウル盆地はあたかも自然要塞、自然城郭のような地形である。北漢山は3つの峰が三角形のように位置しているため、三角山とも称されている。 李成桂は風水地理観点から漢城(現在のソウル)に遷都したが、ここは山川の集約地であり、金城天府之地、背山臨水(前には川、後には山があるという意味)の明堂(人間が最も住みやすい場を意味する)の地といわれた。
古くからソウルの鎮山は三角山といわれた。李重煥は「択里誌」で、「山形秀麗で水清らかで、河川海に通じる山は力量にあふれている。わが国では開城五冠山、忠南鶏竜山、黄南九月山と『三角山』を朝鮮四大名山」としている。 ソウル駅から東方に望める南大門は、南山と仁旺山の山並みを結ぶ、ちょうど、鞍部の丘陵地に建立されたものである。 ソウルの地形のもう1つの特徴は峠の多いことである。地形図で見ると北方が山地であるので、南北方向の道路は傾斜起状しているのは当然としても、東西方向の道路も概して起状が多い。起状の少ないのは鍾路だけで、その南にある乙支路や退渓路も起状の多い道路である。 これらの南北、東西方向に走る道路のあちこちにある峠に、山城や軍事基地が築かれたのである。つまり、ソウルは軍事的観点から都がつくられたといってもよい。 李朝が1394年、遷都したとき、ソウルは漢陽府と呼ばれていた。翌年6月6日に漢陽府は漢城と改称され、1910年まで呼称された。 封建王朝がまずやったことは王宮を建てること、次いで城郭の築造であった。 世宗王の時は32万3000人を動員して石積みを修築したりしている。その後もたびたび修築された。城郭の周囲には8つの門を建立して、外部からの出入りをチェックした。 当時の8門で残っているものは北は粛清門、東は興仁門、東大門、南は崇礼門、南大門、東南は光煕門、西北は彰義門、西は敦義門であり、東北の恵化門、西南の照義門は壊されている。最大のものは崇礼、興仁の2門で、広壮雄大を極めたと記録にある。 城郭は600年以上経た今日でも、風雪によって表面はま滅された個所があったとしても、基礎のゆるんだ個所は発見されていないという。朝鮮民族の建築技術の水準の高さを見せてくれる。市民に親しまれているのは南大門と東大門であろう。(サゴン・ジュン、朝鮮大学校教員) |