噛みしめる統一の世紀

生きたく思うこれからの100年

金蒼生


 100年を生きられるわけではないが、これからの100年を生きたく思う。

 3日先のあてすらなく、3日前の記憶すらあいまいなまま、ただ生きつなぐのに懸命だった日々も積み重なれば歳月となる。ましてや、100年ともなれば「1世紀」であり、人は何かしら厳かな気持ちになり居ずまいを正しもしようが、偏屈なところがある私は20が21になるだけのことに騒ぎ立てる世間の気が知れなかった。6月15日までは。

 新世紀だと騒ぐ世間に先立つこと半年、「先んずれば事を制す」といい、「始まりが既に道の半ばをゆく」と、わが国のことわざにもあるではないか。

 その日こそが朝鮮民族にとっての新世紀の始まりだったのだ。全世界のわが同胞たちは熱い涙とともに祝杯をあげたことだろう。

 統一とは、出会えなかった人と人が出会うことだ。

 この大阪でも、堰(せき)を切ったかのように、統一に向けたさまざまな集いが催された。その都度、日時を確かめては苦悩した。開店休業状態が長く続いているわが店だが、定刻開店・閉店が商いの基本であってみれば、行きたし、されどの心境に心揺れ、結局は「日銭よりも統一や!」と自分に檄をとばし、大慌てで店のシャッターを下ろし、会場に向かうことがしばしばだった。

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 総聯生野南支部の同胞たち100人が出演した群集演劇「チャンチ」を観に行った時のことだ。息を切らせたまま、ロビーで顔見知りの誰かれにあいさつしているとき、目の端に「彼女」をとらえた。自分の身に振りかかるであろうさまざまなことを覚悟の上で、1989年のピョンヤン青年学生祝典に南の学生代表として参加した林秀卿さんだ。

  「統一の花」と呼ばれた彼女は南に帰り着くやいなや、3年4ヵ月を獄につながれた。ジーンズにフリースの上着というカジュアルな服装に、白いTシャツに綿パンのまったくの普段着で、ピョンヤンの大競技場に万雷の拍手を受けて登場した時の彼女を思い出した。釈放後、彼女は結婚し、母になり、離婚を選択し、この日本に五歳になる男の子を伴っていた。

 「チャンチ」は同胞結婚式の親族記念撮影の現場という意表をついた設定で、なにより出演者全員の顔が誇らしげで楽しげで、観客を幸せな気分にいざなってくれる舞台だった。次いで猛練習を重ねたであろう同胞たちによるサムノリや舞踊があり、会場を埋めた500余人の観客はおおいに沸き、そしてフィナーレを迎えた。出演者全員が舞台に上がり、会場に「ウリエソウォン(我らの願い)」が響きわたった。

 司会者が林秀卿さんを紹介し、彼女を舞台にあげた。総聯生野南支部の同胞たちと肩を並べた彼女の姿に目頭がうるんだ。幕が下りようとしたそのとき、林秀卿さんがマイクに駆け寄った。「皆さん、この歌は椅子に腰掛けて腕組みしたまま歌う歌ではありません。立ち上がって、もう1度、歌いましょう!」。はじかれたように観客が一斉に立ち上がった。童謡であるこの歌は、半世紀を越える分断の時代を歌い継がれてきたのだ。祖国の真の解放と民主化を求め、統一を志向したがゆえに、囚われ、繋がれ、斃れた、数さえ知れぬ人々によって。

 彼女の手痛い指摘に、南の胸痛む映像が幾つも頭をよぎった。私たちは互いに肩を組み、もう1度、最初から「我らの願い」を歌ったのだった。彼女の言葉に間髪を入れず、観客は応えた。通訳を介さずに。思いを共にして。

 産まれる地を選べなかったことが私のハン(恨)だった。同族相食む朝鮮戦争のさなかに、父母の故郷である済州島ではなく、この日本で生まれた。済州島4・3事件がようやく終息に向かっていた時期であるとはいえ、無事に育ちえたかどうか。歴史の峻厳を思い、累々(るいるい)たる死者を想う。累々たる屍の犠牲によって立つ、統一の世紀であることを噛みしめる。

 「ファンガップ(還暦)がチョンチュン(青春)」と歌にあるが、それなら私はまだ思春期だ。感情を全開にして、私は統一へと向かうこれからの百年を生きたい。(東大阪市在住)

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