分断史を越え、帰ってきました
信念曲げずに半世紀
【ソウル発=元英哲、文光善記者】
22日にソウル入りし、一夜を過ごした第1次総聯同胞故郷訪問団一行は日程2日目の23日、出迎えに来た家族・親戚らの案内で、それぞれの生まれ故郷に向かった。メンバーらは25日まで2泊3日の日程を故郷で過ごし、肉親らと語らい、父母や祖先の墓参りをした。なかでも総聯東京・足立支部顧問の梁錫河さん(73)、川崎高麗長寿会会長の盧垠さん(72)、女性同盟青森県本部顧問の李漢今さん(70)の3人は故郷に実母が存命中で、それぞれ高齢のオモニと涙の再会を果たした。また朴在魯団長(77)は、慶尚北道義城郡にある甥の家を訪ね、父母の墓地で墓参りもした。村の入り口には「歓迎 総聯同胞故郷訪問団 朴在魯団長」と書かれた横断幕が掲げられ、村中の人たちが朴団長を出迎えた。
大邱 「もっと長生きして下さい」 50数年前、日本へ行ったままの息子を待ち続けた95歳の老母は、ひざまずいて頭を垂れる72歳の息子の顔を何度も何度もなでた。 盧垠さん(川崎高麗長寿会会長、72)は23日、母親のソン・ランギさん(95)と次男のファヒョンさん(67)一家が共に暮らす慶尚北道・大邱を訪ねた。 母、ソン・ランギさんは長男、盧垠さんの顔や腕をひとつひとつ確かめるように手で触った。23歳の時、日本に送り出した息子が70歳を越えた老人になって帰って来るとは思いもしなかっただろう。老母の脳裏には、たくましい青年としての息子の姿しか残っていなかった。 盧垠さんの父は日本の植民地時代、独立運動に加わり、投獄された。獄中で加えられた拷問による傷を治療するために日本に渡ったが、その時、長男の垠さんも同行した。1947年のことだった。 解放後、故郷の南の地には親日政権が樹立された。反日運動をした盧垠さんの父にとって、そこは帰る場所ではなかった。そして61年、「北もわが祖国だ」と帰国船に乗るが、拷問による病状が悪化していたこともあり、63年に死去する。 その父が、盧垠さんに残した言葉が「大義滅親」(正しいことをするためには家族に迷惑がかかる場合があるという意味)だった。 盧垠さんが総聯の活動家であることを知った当時の政権は、南の家族たちに有形無形の圧力を加えた。弟のファヒョンさんは、「そのせいで大きな会社に就職できなかった」と当時を振り返る。 そのような苦労を経て息子と再会した老母は、「もういつ死んでもいい」と安心した表情で言った。しかし、孫の話が出ると、また涙顔になった。孫とは、72年に北側に帰国して平壌で暮らす、盧垠さんの長男、テスさん(46)のことだ。 盧垠さんは父親と共に日本に渡る際、2歳だった息子、テスさんを置いてきた。テスさんは故郷で高等学校を卒業するや父親に会いに行こうと密航して日本に入った。日本当局に自首したテスさんは、南への強制送還より北行きを選んだ。 「オモニ、テスとももうすぐ会えますよ。だから長生きしてください」 老母は深い息をつき、息子の手をまた握った。 1943年、「徴用」で日本に強制連行された韓さんは解放するや、金を儲けるつもりで、日本に残った。米沢、北海道、山形などを転々としながら、総聯の分会長、支部委員長、本部の役員を歴任した。 しかし、いつも頭から離れない心配ごとがあった。それは両親の墓を守り、祭祀をするべき兄が他界したため、自分が家門を守らねばならない、ということだった。兄の墓参りをした後、いくばくか気持ちが落ち着いた。 韓さんは墓参りを済ませた後、姪の夫の家で57年ぶりに姉と対面。北に帰国した3男(94年2月に死亡)とその嫁、長女(41、咸興市在住)と孫たちの写真を見せながら、次回は日本にいる家族や朝鮮の娘たちと一緒に会おうと約束した。 南北共同宣言が発表される前には、考えることすら出来なかったことだ。 「オモニ、会いたかった。末っ子がやっと来ました。オモニ、ピルソンが来ました」。晋州市近くの山奥で老女の慟哭が大きくこだました。 李畢先さん(女性同盟長野県本部顧問、74)は、険しい山道を辿り、両親の墓場に到着するや、そのまま崩れ、むせび泣いた。五十余年の間、我慢に我慢を重ね、今日のこの日に初めて吐き出した泣き声だった。 李さんの両親の墓の近くには、「慶南先端養豚研究所 工事中」と書かれた看板が立ててあった。工事現場近くの墓は、年内にすべて移転することが決まっており、李さんの両親の墓も移転の対象に含まれていた。 李さんの夫は5年前に、故郷の地を2度と踏むことなく、この世を去った。その夫の願いを胸に、23日には慶尚南道・山清郡にある夫の実家の墓を訪問。24日にやっと姉たちと再会し、両親の墓を訪れることが出来たのだ。 実家を訪れる前日、李さんはなかなか寝付けなかった。7人兄弟の末っ子の李さんが半世紀ぶりに姉と対面するだけに当然のことだった。
済州 「生きていてくれてありがとう」 梁錫河さん(総聯東京・足立支部顧問、73)が59年ぶりに訪れた故郷の済州には、夢にまで見た104歳のオモニが横たわっていた。梁さんが体を抱きかかえても、息子の存在になかなか気付かない。 「オモニム、生きていてくださってありがとうございます」。梁さんは何度も繰り返しひざまずき、深々とあいさつした。 梁さんのオモニ、ユン・フィチュンさん(104)は、済州道4・3事件で長男と次男、2人の嫁、孫の5人を虐殺された。 日本へ行ってもほかの家の息子たちは戻ってくるのに、なぜうちの息子は帰ってこないのか、祖国が統一されれば息子は必ず帰ってくるだろう、ユンさんはこう信じて生きてきた。 12年前、ユンさんは日本を訪れ、息子の姿を見ては、「あと10年長生きしなければ…。そうすれば、統一も実現されるし、3男も故郷に来れるだろう」との言葉を残して済州に戻った。 梁さんがオモニに捧げたあいさつには、約束の10年は過ぎたが、オモニが生きている内に故郷の地を踏むことが出来た感無量の気持ちが込められていた。 「やっと来たか…」 梁さんの呼びかけが通じたのか、オモニは奇跡的に息子に気付いた。梁さんは平壌で買ってきた牛黄清心丸(漢方薬)をさじでオモニの口に入れ、日本であつらえた青色のチョゴリを贈った。 |