近代朝鮮の開拓者/科学者(2

桂応祥(ケ・ウンサン)


 
人・ 物・ 紹・ 介

 桂応祥(1892〜1967年)平安南道定州郡の貧しい農家に生まれる。悪条件を克服しながら九州帝大養蚕学科に進む。卒業後、助手や中国の中山大学の教師となる。解放を迎え、養蚕学を通して人民経済発展に大きく貢献する。

養蚕学通じ人民経済に貢献/最後まで自主的立場貫く

 化学繊維ビナロンの発明で、李升基博士が朝鮮の名を世界にとどろかしたとすれば、古来からの優美な絹織物のもととなる蚕(かいこ)と繭(まゆ)の改良で世界的な業績をあげた人が桂応祥博士である。

 桂応祥は1892年、平安南道定州郡の山間部の貧しい炭焼きの農家に生まれた。苦しい生活の中でも向学心を捨てきれず、人よりも遅く村の書堂に通い、さらに上の学校を目指して、ソウルの五星中学に入学したのは十九歳の時であった。

 この時代に彼は貴重な経験をする。それは、彼が江華島の友人の家で過ごしていた時のことだ。村人が死んだ蚕を持って訪ねてきた。

 業者から買った蚕が大量に死んでしまったので、その原因を調べてほしいというのだ。学校の顕微鏡で見ると小さな虫が寄生していることが解った。それによって村人たちは賠償を得て、再び健康な蚕を買うことができた。

 このことによって彼は、専門的な知識の必要性を痛感し、自分も農民のために、養蚕の部門を深く勉強しようと決意する。

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 中学卒業後、就職できずにいた彼は家での農業生活を打ち切り、東京で約1年間、英語専門学校に通い、翌年、長野の上田蚕糸専門学校へ、さらに日本で唯一の養蚕学科のある九州帝大へと進学するのである。学費はすべてアルバイトに依り、徹底した節約生活を送る。帝大の卒論は蚕の解剖に関するものであったが、これはこの分野の権威として知られる田中義磨博士を驚かせた。その鋭い観察力と、それを可能にする実験の量と質にである。卒業とともに田中の研究助手となった彼は、研究助手として大きな役割を果たした。

 その後、彼は中国の中山大学などで教えるが、苦心の末、39年に帰国する。そこで待っていたのは日本の警察の逮捕状であった。いまだに民族性が強いというのであった。

 釈放後、水原農事試験場で働き、九州帝大の蚕の遺伝学的研究に関する博士論文を提出している。この論文によって解放後、朝鮮でも第1号の農学博士を授与される。

   解放を水原で迎えた彼に、朝鮮は金日成総合大学で教べんをとってほしいと要請する。彼は喜んで北へ向かった。そして農学部教授、中央蚕業試験場長として大きな仕事をこなしていった。農学部が大学から独立し、蚕学部の学部長に昇進。この時、国際的なルイセンコ学説論争があったが、彼はあくまで自主的な立場を貫いた。

  人民経済に大きな貢献をした彼であるが、おしくも67年、交通事故のため死亡した。波乱のなかに筋を通した生涯であった。(金哲央、朝鮮大学校講師)

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