文化財返還問題と「韓日条約」(上)

「引き渡し」と「寄贈」

植民地犯罪の否定、国家責任の回避


 第10回朝・日政府間本会談で朝鮮側は改めて、日本が破壊・略奪した文化財に対する物質的な補償と文化財の返還を求め、これに対する「韓日妥結方式」は絶対に受け入れられないと主張した。と、同時にマスコミも「文化財問題解決は過去の清算の中核的な問題の1つ」(労働新聞、5月3日付)、「日本は破壊、略奪した文化財に対して補償し返還しなければならない」(同上、7日付)、「日帝の悪らつな高麗磁器略奪蛮行」(統一新報、8月12、19、26日付 連載)という、キャンペーンをはった。それらの論旨を軸にして、文化財問題が「韓日会談」でどう処理されたのか、その問題点は何か、を再考してみた。

かけ違えた最初のボタン

 朝・日国交正常化交渉の朝鮮側代表の鄭泰和団長は、8月24日の記者会見で「日本はすべて正当な経路を通じて文化財を持ってきたと主張するが、歴代総督らは朝鮮民族抹殺政策下で率先して文化財を略奪したではないか」と強調した後、朝鮮王宮を丸ごと日本に移し、自分の故郷に博物館を建てた事実(寺内正毅が故郷の山口に朝鮮文化財を集め朝鮮館を設立したことを指す)などをどう考えるのかと、ただした。この発言を南の国民日報(8月25日付)はこう評した。

  「50、60年代の韓日会談の時と、その間日本を訪問した韓国の歴代為政者たちからほとんど聞くことができなかった対日公開メッセージであるという点で新鮮な衝撃であった」

 「韓日条約」(1965年6月22日調印)は、植民地支配の清算問題を「完全かつ最終的に解決された」(請求権及び経済協力協定第2条第1項)と、してしまった。

 最初のボタンをかけ違えた結果、条約から35年になる今も、かつて日本が朝鮮から不法に略奪した文化財返還は、朝鮮民族にとって、見逃すことのできない重大な意味を持つ問題である。

「引き渡し」として処理

 「韓日条約」・「協定」のなかに、「文化財及び文化協力に関する協定」というのがある。「協定」は4ヵ条からなっており、他に「付属書」「合意議事録」が付いている。

 会談で、日本側(野党・マスコミを含めて)は「文化財の略奪はなかった、ほとんど大部分が正当な手段で取得したものであった」と、始終おし通し、南側は「返還」を求めたが、最終的に日本側の態度に屈服し妥協したのであった。

 その妥協の産物が「付属書」と「合意議事録」だ。「付属書」には、日本が南に引き渡すべき文化財の品目が列記されている。また「合意議事録」には、日本人の私有の文化財の「寄贈」について両当局が合意したことが記されている。

 「付属書」で日本側は、不法不当(強権による略奪)に持ち出したわけではないので、返還すべき法的義務も理由もないが、「国交」正常化と文化協力などを記念する「祝い品」として、好意的に「引き渡す」と、表明した。

 日本が「引き渡す」文化財は国有品のごく一部に限られ、私有品は除外された。南側は私有品の「返還」も要求したが、日本はこれを拒否し、両者の意見は衝突した。そこで「合意議事録」をつくって妥協した。「日本国民がその所有するこれらの文化財を自発的に韓国側に寄贈することは日韓両国間の文化協力の増進に寄与することにもなるので、政府としてはこれを勧奨するものである」と。

 ここに一貫している思想は徹底した植民地犯罪の否定であり、「民間人の所有物には干渉できない」という国家責任の回避である。

全民族的な観点にたって

 文化財はどの民族にとっても、悠久な民族史を具体的に語る表象物であり、伝統を正しく継承発展させるための、なにものにも代えがたい遺産である。それが失われることは民族の誇りを失うにひとしい。

 かつて歴史学者の旗田巍氏(はただ たかし、1908〜94年)はこう指摘した。「(中略)その返還の要求は朝鮮統治の責任の追及である。(中略)これは本来、全朝鮮民族にかかわることで、韓国との交渉で片づく問題ではない」(「日本人の朝鮮観」)。

 だから、朝鮮側は、全民族的な観点にたって、この問題を過去の清算の中核的な事項の1つとして提起し、植民地統治における被害の具体的な現物に関わる問題だとしながら、この解決なくして完全な過去の清算問題解決はあり得ないと、一貫して主張しているのだ。(金英哲記者)

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