続く避難生活

復旧には数ヵ月


 東海地方を襲った記録的な豪雨は年間雨量の3分の1にも達し、とくに名古屋市天白区や同市と隣接する西枇杷島町、同胞らが密集して暮らす新川町に住む同胞らに大きな被害をもたらした。彼らの多くが今なお、親戚宅などでの避難生活を余儀なくされ、被災前の生活に戻るには数ヵ月はかかりそうだ。かりに元の生活に戻ったとしても、それは過重な負担を背負ってのことで、被災者らは「先は真っ暗」と口を揃える。そうしたなか、新川町、西枇杷島町在住の愛知朝鮮中高級学校に通う女生徒2人のうち1人は、元気に登校を始めた。(羅基哲記者)

新川トンネ
約60戸、3分の1が独居の1世
生活必需品、 思い出失う

 新川町一帯は、12日未明から新川の水が溢れ出し、14日の昼までにその水位は、成人の胸の高さまで達した。ここは、解放(1945年)前から同胞らが密集して暮らすトンネで、現在、廃校となった旧愛知朝鮮第9初級学校校舎を中心に、総聯、民団を含め約60戸の同胞らが住んでいる。その3分の1は、1人暮らしの1世だ。

 解放直後からここに住む禹貴淑さん(71)もその1人。家が平屋なので、畳やカーペット、ふとんやタンス、食器にテレビなど、生活に必要なものをほとんど失った。被害総額は100万円をゆうに超える。それに解放直後から細々と営んできた手袋工場の、機械や材料も使えなくなり、今後の生計の見通しはまったく立っていない。

 同じく1人暮らしの趙香花さん(66)の家も浸水した。2男3女を育て、思い出がたくさん詰まった家だ。

 生活必需品をほとんど失ったが、それよりもピアノを失ったことに心を
痛めている。三人の娘たちが愛用し、その後は孫たちが朝鮮の歌などを弾いてくれたピアノだからだ。

 「冷蔵庫などは買えばどうにかなる。だが、子供と孫たちの成長を見届けてきたピアノはもうない」とくやむ趙さん。生活をやり直すか、あるいはトンネを離れて息子と一緒に暮らすかの選択を迫られている。

 1人暮らしの姜少女さん(80)宅は、もう住むことができない。姜さんは、総聯中央の呉亨鎮副議長から見舞金を受け取った時(14日)、「総聯組織のありがたさを改めて肌で感じる。トンネの1世たちが1日も早く元気を取り戻せるよう、みんなと力をあわせてがんばっていきたい」と語った。

 トンネの1世たちは日曜日になると、旧愛知第9初級学校校舎でカラオケ大会を開いてきた。だが、今回の豪雨。いつまたカラオケ大会を開ける日が来るのか。

西枇杷島町
朝青員が泳いで救援物資
感無量 と申さん、親族も被害

 町中が一面、黄土色の水に覆われた西枇杷島町。ここには、総聯、民団を含む十数戸の同胞が住む。

 12日午前2時半すぎごろの、新川堤防の予想外の決壊により、水は西からかなりの勢いで木材などと一緒に流入し、水位は一挙に約2メートルまで達した。堤防の決壊通報がなかったため、住民のほとんどが家に取り残された。

 申英行さん(56)一家4人も同じ状況だった。申さんは、「1階は完全に浸水し、冷蔵庫など、ありとあらゆるものが浮かんでいた。2階に避難したが、停電でテレビもつかず、まったく状況がわからない不安な時間だけがすぎた。そんななか、午後2時ごろ、朝のニュースで被害の深刻さを知った朝青活動家が浮き輪を片手に泳いで、 サランの救援物資 を頭に乗せて尋ねてきたくれた。感無量だった」と振り返る。

 救援物資は多くはなかったが、両隣の日本市民と分け合って食べた。

 その後、ボートに乗って駆けつけた兄に助けられ申さん一家は避難。水が引いた14日、自宅に戻ってみると、床は一面泥だらけ。戸棚の食器やふとんなどが散乱し、どこから手をつければいいか分からなかった。家の後片付けは、家具や電化製品を運び出し、泥の除去から始まった。そして「タンスより重い」という畳の撤去など…

 申さんの妻、張玉蓮さん(51)は、「家と店(スナック)がダブルでやられた。車もだ。明日からどうやって暮らしていこうか」、家の中の泥を掃き出しながらこうつぶやいた。

 元の生活に戻るには数ヵ月がかかりそうだ。また新川トンネにある申さんの実家や改築したばかりの弟の家なども、大きな被害を被ったという。

天白区
残ったのはカウンターとイス、借金

再開のめど立たない飲食店

 天白区在住の同胞らが被った被害も深刻だ。12戸の同胞宅が浸水したが、うち5戸が飲食店で、営業を再開するめどは立っていない。
 焼肉屋「野並園」を細々と営んできた呉文子さん(58)の自宅兼店舗は、カウンターとイス、借金だけが残った(写真)。店がある野並町周辺は、天白川の水が溢れ、水位は約2メートルにまで達した。西枇杷島町同様、大量の泥が流れ込み、下水も混じった。そのため、衛生上、これまで使用していたものはほとんど使えない。

 呉さんは5年前、1度たたんだ店を82歳になる母と再開した。400万円の借金をしてのことだが、まだ全額を返済できていない。

 「食べるぐらいだったら、働きに出ればどうにかなる。だが、残った借金はいったいどうやって返していけばいいのか。この不景気のなか、2重の借金を背負ってまで、店をやり直すことは不可能だ。腰まで水がきた時点で避難したが、その時、明日の返済にと持って出たお金(約20万円)も流されてしまった。これからどうやって生活していけばいいのか」、呉さんは落胆するだけだった。

 呉さんの母は安全のため一時避難入院していたが、現在は退院し、近所の孫の家で避難生活を送っている。

 また同区内にある他の同胞の店も、状況は同じだ。

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