近代朝鮮の開拓者/科学者(1

李升基(リ・スンギ)−下−


 
人・ 物・ 紹・ 介

 李升基(1950五〜96年)全南の潭陽(タムヤン)の文人の家で出生。新知識の習得のためソウル中央高普から松山高校、京都帝大化学工業科へ。38年、米国のナイロン発明に次いで、翌年にビナロン合成に成功。45年解放と共に出獄する。

様々な化学製品を開発/戦争中は洞窟で研究

 日本の敗戦により、祖国の地に化学工業の建設を、と大きな抱負を胸に帰国した彼であったが、そこは米占領軍と手を結んだ反動らの天下となろうとしていた。失望のあまりソウル大学を辞職し、故郷に引きこもった彼を再び大学に引き戻したのは、彼から教わりたいという学生たちの熱意であった。

 悪条件の中で彼は、工科大学の学長として大学の再建に努力する。しかし、条件は悪化するばかりである。南だけの単独選挙、カイライ政権の成立、愛国的な人士や学生に対する弾圧、「北進統一」を叫ぶ李承晩。そして、ついに朝鮮戦争の勃発。3日後に北の人民軍はソウルに入った。

 7月末、端正な小柄の中年紳士(たぶん李鐘玉―のちの副主席)が訪ねてきた。

 「共和国政府では、先生が興南化学工場で仕事をしてくださるよう望んでいます。先生のご意向はいかがでしょうか?」。李升基博士はこれを快く承諾し、家族と共に興南に向かう。

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 しかし、この工場も米軍の爆撃を受けるようになり、必要なものだけをもって後退する。戦時中、彼は技術者グループと共に平北道青水里の山に掘られた大洞窟を研究所として、戦後のビナロン工場の再建を展望しながら研究を続けた。共和国政府の手厚い支援のもとに、一年足らずのうちに日産20キロの試験工場の設計に着手するまでになった。

 まさに、その頃、金日成主席は全国科学者大会を平壌の牡丹峰地下劇場に招集し、自ら参席されたのである。1952年4月27日のことであった。

 世界最強を誇る米軍と、それを率いる十数ヵ国の軍隊と戦いながら、戦後の復興と科学立国を展望する科学者大会であった。また、この大会は同時に科学院の創立につながった。この時、李升基博士は個別に金日成主席から温かい激励を受けている。

 戦時中からの研究と実験に基づき、60年から咸興の郊外、本宮でビナロン工場の建設が本格化する。年産2万トン規模、設計図だけでトラック二台分になったという。この建設は、人民大衆の自力更生の熱意によって、わずか1年余りの61年5月に完成した。石から布ばかりでなく、羊毛のようなモビロン、合成ゴム、塩化ビニールなど、様々な化学製品が開発されていった。これには61年、日本から帰国した廉成根博士なども参加している。このようにして、李升基博士は共和国の化学工業の土台の構築に大きな役割を果たしたのである。

(金哲央、朝鮮大学校講師)

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