私の会った人

倉嶋厚さん


 易しい言葉で茶の間に天気予報を定着させた功労者。「鹿児島地方気象台長を最後に、約40年間勤務した気象庁を定年退職するまでは、まさかテレビに出て気象キャスターをやるとは夢にも思いませんでした。気象も人生も、未来を予測するのは難しいですね」。

 気象の道に入ったのは偶然のきっかけからだった。「旧制中学を卒業して進学する時、官費で勉強できる中央気象台付属気象技術官養成所(現、気象大学校)に進めば、両親に学費の負担をかけずに済むと思ったからです」。仕事をするようになってから「大空の虜になってしまって…」。

 日本で天気予報が始まったのは、100年ちょっと前。当時の気象情報はわずか660字だった。今1日のデータ量は、約1億500万字にのぼる。「世界各地の気象情報の中でも、朝鮮半島からのものは、とくに大事です」。

 一衣帯水の距離、互いの空模様が影響を及ぼしあう。「例えば季節風が吹いて、白頭山から能登半島に太い雪雲の筋が張り出してくると、日本海側は大雪になります。将来は共同して気象観測できればいいですね」。ともに美しい四季に恵まれた朝鮮と日本。季節の花言葉がそれを物語る。「桜が咲く頃、花冷えという季語があります。朝鮮では、コッセンパラム(花妬む風)と呼ぶそうですよ。気候は一直線に変わるのではない。3歩進んでは2歩下がりながら春が深まって行く様子を見事に表した言葉です」。

 専門書から暮らしまで幅広い著書を持つ。(粉)

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