洪昌守――――――――――――

わが子は世界王者

朝鮮の子育んだ同胞コミュニティー


勝利できたのは「同胞のみなさんのおかげ」と何度も口にするオモニ権敏子さん


チャンピオンベルトを高く揚げる洪昌守(2日、大田区の実家前で)


 在日朝鮮人ボクサーとして初めて世界王座に就いた洪昌守(25)。2日、大阪から東京都大田区の実家にチャンピオンベルトを持って凱旋を果たしたチャンスを同胞、日本人ファンら400人が出迎えた。子供らが歓声をあげてチャンピオンの前に長蛇の列を作り、Tシャツの胸や背中いっぱいにサインを書いてもらった。その姿に目を細める両親やハラボジの目に光るものがあった。その類まれな才能を生み、大切に育てた父と母、家族。「自信家で楽観主義者。華やかさもある。いい王者が誕生した」(朝日新聞8月28日付)とマスコミまで味方につけた洪昌守の率直な人柄。どのようにしてそんなに強くて明るい子を育てたのだろうか。(朴日粉記者)

オモニが語る感謝の言葉

分会長40年の祖父、空手家の父、民族の気概受け継ぐ

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 「私たち夫婦は何事も自然流なんです。チャンスがボクシングをやりたいと言い出した時、理由を聞いたら『空手の試合は勝っても、負けても納得がいかない。日本の社会で認めてもらえるボクシングがやりたい』と言うんです。私としてはわが子が打たれるのは見たくないですから、本当はやってほしくなかったんですが、やるのは、チャンス本人。親が口を出してもいいことはないんです」

 チャンスは廃棄物処理や土木を請け負う会社を経営する父・洪炳允(62)さんと母・敏子さん(56)の間に生まれた五人兄妹の末っ子。父は仕事の傍ら空手道場を開いている。チャンスも幼い頃から「門前の小僧」よろしく空手を習ってきた。中学の頃には空手二段。東京朝高ではボクシング部で全国優勝に輝いた。この間、敏子さんは息子の試合をずっと「オッカケしてきた」。出る試合はほとんど勝ち、負け知らずのチャンスだが、敏子さんによれば、その素顔は優しく、周りへの気配り上手。「スキーに行っても、年長者の板を持ってあげたり、女性記者の取材を受けたら駅まで送ったり、さりげない気配りをしていますね」。

 6年前、朝高を卒業して兄たちと家業を手伝っていた時、もう1度、ボクシングに挑戦したいと、大阪行きを決意。「その時も、兄たちが家の仕事をしているのに、練習で抜け出すのは申し訳ないという気持ちから東京を離れたようです」。

 未知の土地、大阪に行った後、料理店でバイトをしながらジムに通い、家の援助はいっさい断った。「ある日、夕飯を食べるお金が無く、道をトボトボ歩いていたら、目の前に総聯東成支部があって、涙がでるほど嬉しかったと言っていました。迷わず飛び込んであいさつしたら、朝青のトンムたちが、ご飯をごちそうしてくれて、それ以来ずっと可愛がってもらい、有り難いことです」。

 家を離れて以来、チャンスは父母に苦しいこと、悲しいことをいっさい話したことがない。「新聞や雑誌で見て、ああ、こんなこともあったんだと後からやきもきすることも多かった。わが子をここまで愛して見守って下さった同胞たちに心から感謝しています」と母はしみじみ語った。

 チャンスは総聯大阪府本部が強制捜索された時も、仲間と共にかけつけて組織を守る心意気を示した。

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 世界戦のリング上で高々と打ちふられた統一旗と共和国旗、「われらの願い」の大合唱。そして世界チャンピオンになった瞬間、チャンスの口から飛び出したのは「朝鮮は1つ」という雄叫びだった。

 このセレモニーの実現のために、父はこの2ヵ月、大阪に実に10数回通い続けた。「チャンスは朝鮮人であることを隠してリングに上がる位ならもうボクシングなんてやめてもいいとまで思い詰めていたこともあった。何よりも大切な祖国が1つになるというのは、同胞みんなの長年の悲願ですからね」と破顔一笑した。

 幼い頃からチャンスを誰よりも愛し、可愛がったのは外祖父の権元玉さん(75)。孫が世界王者になった喜びもさる事ながら何よりも嬉しかったのは「勝ったチャンスがリング上で朝鮮は1つだと叫んだことだった」と感激を改めて噛み締める。総聯大田支部羽田分会長を約40年。地域の同胞たちは「羽田分会の創設以来の分会長。子供、孫が30人いるが、みんな朝鮮学校に通わせた本物の愛国者。ただただ頭が下がります」と尊敬の念を隠さない。権さんは12歳の時、父と共に慶尚南道峽川から渡日。その父は植民地時代、ありとあらゆる民族差別をなめながらも決して屈することなく、堂々と朝鮮語を使い続けた人だったと言う。

 幼い頃からチャンスは、この外祖父の民族的な気概と、分会長として同胞のために尽くす姿を間近に見ながら成長した。ハラボジ、両親へと脈々と受け継がれた民族の精神、同胞を愛する心が、世界王者を育んだ豊かな土壌となった。

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