非転向長期囚帰還−本社記者現地レポート
沿道埋める歓迎の人波
板門店→平壌 興奮のるつぼ
「やっと会えましたね」目に涙
歴史的な南北共同宣言の合意に従い2日、南朝鮮の非転向長期囚63人が朝鮮民主主義人民共和国に帰還した。転向の強要にも屈せず数10年の獄中生活に耐え抜き、統一へと向かう民族史の歴史的転換の局面でついに帰還した彼らを、北の市民らは板門店から平壌までの沿道で熱く歓迎した。 「待ち遠しかった」 「熱烈に歓迎します!」と、子供たちが花束を手渡す。歓呼の声があがる。歓迎の群衆で人垣のできていた板門店北側地域は、一瞬のうちに興奮と歓喜のるつぼとなった。 「夢にまで見た『祖国』です。境界線を越えてこの地を踏む瞬間がどれだけ待ち遠しかったか」 43年間の獄中生活を送ったリ・ジョンファン氏(77)は感激ひとしおの様子だ。 迎えに出た党と国家の幹部らが、非転向長期囚1人1人と熱く抱擁する。 「やっと会えましたね」 彼ら1人1人に声をかける朝鮮労働党中央委員会の金容淳書記の目も涙でいっぱいだった。 非武装地帯を越えた瞬間、まさに歓迎の人波が広がった。これまでも、軍事境界線を越えてきた統一人士を歓迎して開城市民が出てきたことはあるが、板門店の出入り口の沿道が人波で埋め尽くされるのは初めてのことだ。黄海南道沙里院市の沿道でも、歓迎の人波は続いた。 3時30分、一行が平壌に入る頃にはテレビの実況中継も始まった。非転向長期囚キム・イクチン氏(68)は車窓越しに首都の風景を見つめながら「昔の平壌とは見違えた」と感嘆することしきりだった。また平壌で最初に花束を渡したのは7年前に帰還した非転向長期囚、李仁模氏の家族だった。 一行は4時40分、錦繍山記念宮殿に到着し、金日成主席にあいさつをした。 「統一の日を見れずに逝ってしまうなんて…」 キム・ヨンス氏(78)は座り込み、朝鮮式に手をついて深く頭を下げた。 この日、開城・板門店から長期囚が宿泊する平壌・高麗ホテルまでの150キロ沿道は、市民らの熱気で包まれていた。(平壌発=金志永、姜鐘錫記者) 息子と50年ぶりに再開 退路絶たれ、パルチザンに/被弾し左目失明、計34年獄中 元朝鮮人民軍兵士の金永泰氏(69) 別れたときは乳のみ子だった息子は、50歳になっていた。 「アボジ!」 目の前に現れた息子を抱き締めながら、金永泰氏(69)は感激にむせび泣いた。 金氏は1931年、平安北道定州郡で農家の長男として生まれ、48年に結婚。50年春には長男をもうけ、平穏な生活を送っていた。 ところが同年6月、朝鮮戦争が勃発し、翌月、村の青年たちの決起集会に参加してそのまま朝鮮人民軍に志願入隊。金氏はまだ20歳だった。その後、洛東江の戦闘に参加したが、流行病に感染して野戦病院に入院。さらに退路を絶たれて智異山パルチザンに合流した。 54年2月、戦闘で被弾し左目を失明、逮捕される。1度は死刑を言い渡されながらもその後20年に減刑され、71年に大田刑務所を満期出所する。 しかし75年7月、「社会保安法」制定により再拘束、同法が廃止された89年10月にやっと釈放される。 息子の金龍済さん(50)が父の消息を知ったのは94年秋のことだ。関係当局に帰還を訴えたものの一蹴された永泰氏が、最後の手段としてマスコミに公開した息子への手紙が労働新聞に載ったのだ。以来、ある在日同胞の助けにより父子の間で手紙の往来が始まった。 しかし、妻の琴玉さんはもうこの世にはいなかった。 今年四月の南北首脳会談開催合意直後、非転向長期囚の送還を求める会議参加のため北京を訪れた龍済さんと永泰氏は、国際電話を通じて再会への期待を語り合ったという。 その期待が現実のものとなった。 「アボジ(お父さん)、この間、本当に苦労なさったことでしょう」 「いや、圧力と封鎖のなかで屈せず社会主義祖国を守ったお前たちの方が大変だったろう」 涙のなかで再会した父子の表情には、喜びがあふれていた。 |