科学者 (

李升基(リ・スンギ)−上−


 李升基(1950五〜96年)全南の潭陽(タムヤン)の文人の家で出生。新知識の習得のためソウル中央高普から松山高校、京都帝大化学工業科へ。38年、米国のナイロン発明に次いで、翌年にビナロン合成に成功。四五年解放と共に出獄する。

世界的な科学繊維の権威

初めてビナロンの合成に成功

 朝鮮を代表する科学者は? と聞かれた時、それぞれ人は何人かの科学者をあげるであろうが、その時必ずあげられる名前の1人が李升基博士であろう。

 1960年代に、彼の自伝「科学者の手記」が北で出された後、日本語「ある朝鮮人科学者の手記」で翻訳・出版(未来社刊行)されてから彼の名は日本でも広く知られるようになった。

 彼は全羅南道の潭陽(タムヤン)の開明的な知識人の家庭で生まれた。日帝の侵略とともに家は貧しくなっていく。それでも新知識への思いは強く、ソウルの中央高等普通学校を経て、日本に渡り、四国の松山高校(旧制)へ、そして京都帝大の化学工業科へと進む。

 彼は、1931年に優秀な成績で卒業するが、朝鮮人ということで就職できずにいた。それでも喜多源逸教授の努力で、大阪の工英社でアスファルトの研究に従事する。

 しかし、彼の心は常に研究テーマである繊維素の探求にあった。32年、ようやくチャンスが訪れた。彼が工業化学会に発表した優れた論文により東京工業試験所に呼ばれ、ついで京都帝大に日本化学繊維研究所が設立されるや、研究講師として選ばれた。

 ところが38年、米国がクモの糸より細かく、鋼鉄より強いという「ナイロン」の合成に成功したというニュースは、日本の絹糸関係者に大きなショックを与えた。なぜなら、当時日本は世界の絹糸の80し、そのうちの80%が女性のストッキング用に米国に輸出され、日本の外貨の大半を、ここから得ていたからだ。

 日本の繊維関係の研究者は一斉に合成繊維の研究にとりかかり、彼らは急に李升基に「配慮」を示すようになった。


 彼は、10年後、ついに 
合成繊維「1号」と名づけられる「ビナロン」の合成に成功したのだ。日本はその成功を世界に向けて大々的に宣伝したが、どこにも李升基の名前はなかった。

 その時、彼の希望は日帝が滅亡した後、朝鮮の土地にビナロン工業を起こすことであった。45年7月、彼は親しい友人と日本の滅亡は近いと話し合った。たちまち、それは密告されて獄中生活を強いられる。8.15解放を獄中で迎えた彼は帰国することを決心した。
 帰国後、ソウル大学に職を得たものの、そこは米国と反動らの天下だった。良心的な人々と共に大学を再建し、彼も工業化学科を受けもつが、愛国的な教師、学生が次々と投獄されるなか、彼はついに故郷を離れることを考えるようになる。(金哲央、朝鮮大学校講師)

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