関東大震災時、朝鮮人の命を救った人
―自覚していた江渡狄嶺―
琴秉洞
江渡狄嶺(えと・てきれい、本名=幸三郎、1880〜1944年)は、近代日本が生んだ独創的思想家として、世俗的には有名でないが、知る人ぞ知る人物である。この江渡は関東大震災時に3人の朝鮮人の命を救ったことで知られている。
江渡は青森県三戸郡五戸村の生まれで、青森中学八戸分校、東京の錦城中学を経て仙台の2高に進み、1901(明治34)年9月、東京帝大法科に入学した後、政治学科に転ずる。 「いよいよ私を憂国愛人の国士たる理想を以て、政治経済を学ばしむるやうになった」と回顧しているが、日清戦争を契機とするナショナリズムの一大高揚期に彼が「憂国の国士」たらんとしたのは、当時の為政者の対外侵略政策に進んで荷担するということである。 しかし、この前後、江渡はトルストイの平和主義に心を大きくとらえられる。 月刊雑誌「日本人」の1902(明治35)年8月号に東大生 江渡狄嶺の「朝鮮半島論」が載る。時は日露戦争前後、日本の政界、言論界には主戦論が充満し、朝鮮領有論がほとんどの新聞、雑誌上に圧倒的優勢を占めていた。この巨流の中にあって江渡の「朝鮮半島論」は朝鮮領有論の非なるを論じ、朝鮮を永久中立国にすることを説いたのである。これは当時、誠に卓絶した論であり、実質的には朝鮮に対する非侵略論である。 彼は、1923(大正12)年9月の関東大震災に遭遇する。震災直後、政府治安当局者より発せられた「朝鮮人暴動・放火」流言はたちまち多くの日本人を動かし、日本軍警、庶民からなる日本人暴民による朝鮮人狩りとなり、6000有余名の同胞が無残に虐殺された。江渡は頼ってきた3人の朝鮮人をかくまい通し、暴民の凶手から3人の命を守ったのである。 この3人とは、金三奎(キム・サンギュ)とその兄であり、今1人は韓ンネ相(ハン・ヒョンサン)である。この事実は金三奎が解放後、「東亜日報」の編集局長兼主筆として活躍し、李承晩「政権」を痛烈に批判して、1951年、日本に亡命、「コリア評論」を主幹し、朝鮮中立化運動を行いつつ、大震災時の江渡狄嶺の行為を明らかにしたことにより更に多くの人々に知られるようになる。 「えりことをした」 彼は「あの災禍中に只だ一つのヱイことをしたと思うことがあります」と書き、本題に入る。 「アノ二日の夜でした。私の近くの村々で、夕方からシキリに半鐘が乱打されるのです。…その内に、朝鮮人が来襲するのだ。至るところで暴行をして居る。この辺へも、爆弾を持って来て、家屋を破壊焼き打ちするのだソーだ。…その夜は、夜中、村の人達は、棒、竹鎗、刀、鉄砲を持って警戒して居りました。…その夕方、ヤット、人の顔が見分けがつくか、つかないかという夕方、3人の朝鮮人が私方を訪れました。私共は、先づ足を洗はせて、快く受け入れました。ソシテ、それから、3週間ばかり、流言蜚語に迷はされて、半ば狂気になった人々の心が落ち付いて、彼等の身辺に危険がなくなる迄、彼等を家においてやりました。今30分のところでした。今30分も彼等の、私方に来るのが遅れたら、彼等の生命は危かったのです。その翌日の3日になって聞いたら、私共の近くで、14、5人の朝鮮人が傷つけられて、死んだのもあるということを聞かされました。…今度の事件でドレ丈(だ)け、朝鮮人が日本国に対して悪感を抱くやうに仕向けさせられたか…彼等の生命を安全にしてやり得たといふことは、広く、人間として、当然のことを為したに過ぎませんが、日本人、日本国の為に、少しはヱイことをしたと思うております。この1人がなしたこの一事が、少しでも、彼等の心を和(やわら)げる、ひいて、彼等の日本人を正解する一助ともなるならば、私は、日鮮人の幸福だと思うて居ります」 民族対民族の視点 |