私の会った人

藤原ていさん


 半世紀以上前、朝鮮から幼子3人を連れて引き揚げてきた。その頃の夢をいまだに見る。「生まれたばかりの娘を背負い、幼い息子2人の手をひきずっている。背中には、夫の死体を逆さまにして、棒のように凍った両足を肩にかついで『逃げるんだ、逃げるんだ』と声をからして氷原を逃げ迷っている。その声で眼が覚めるんです」。

 あれからおよそ半世紀過ぎて、子供たちもみな平和な家庭を築いているのに、この夢にさいなまれる。「切ないですね。忘れようと焦れば焦るほど、あの惨い記憶から逃れられないのです」。

 日本の敗戦直後、親子4人は中国から朝鮮に逃れ、約1年半朝鮮の宣川で暮らした。飢えと寒さと、日本人同士の激しい争いと。「辛い試練に耐えられたのは、朝鮮人の情愛があったからです。5歳の長男がジフテリアになって絶望していたその時にお金も受け取らず、血清注射をうってくれたお医者さん。子供に食べさせなさいと、こっそり食べ物を分けてくれた食堂のおじさん。目につかないようにご飯や味噌、キムチをくれたおばさん…。戦争中に日本が朝鮮でやった傍若無人な振る舞いを思うと何をされても文句は言えないのに、私たちは仕返しどころか、命を救ってもらった。この恩義は一生忘れません」。

 引き揚げの後、長く病床に伏した。死と隣り合わせの日々に、遺書のつもりで書き上げたのが、処女作となった「流れる星は生きている」。今も27刷を重ねる大ベストセラーである。(粉)

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