渡日した当初
 屋根も壁も板張りで上から蛇がおちてきた

黄任順さん(78)


家中の者が身を粉に働いても、粥も食わせず

「祖国のために死ぬまで役立ちたい」

 のりがパリッときいた白い麻のブラウスと短めの髪形がよく似合う。街で出会っても、「朝鮮のハルモニだ」と感じさせる雰囲気がある。温かくて、素朴で、働き者といった風情が辺りに漂う。

 女性同盟広島県本部・西支部顧問の黄任順さん(78)。長い間、同支部委員長を務めた後、顧問になった後も支部に顔を出して、掃除をしたり、花壇の世話をしたり、バザーがあるといえばコチュジャン作りに精を出したり、休む暇がない。

 黄さんは植民地時代の1992年、慶尚北道慶州郡達城で生まれた。両親、祖父母、7人兄妹、11人の大家族の暮らしだった。「貧しいうえに子だくさん。春窮期になると食べ物がないから、子供はもっぱら山菜採り。家中のものが骨身を惜しまず働いたが、かゆも満足にすすれなかった。トウモロコシを殻ごとうすでひいて炊いたかゆを食べたが、喉がつかえて食べづらかったことを思い出す」。

 10歳の頃から家族の食事の支度を引き受け、夜には麻をつむいだり、木綿を織ったりして、寝る間もないほど働き続けた。「でも、その頃はもう日本や地主に何もかもとられてしまって、働いても働いても、暮らしはよくなりませんでした」。小作の暮らしは、普段でも六割の小作料と1割の地税が差し引かれ、手取りは3割に過ぎなかった。換金するためには、その手持ちの米を売り渡さねばならない。多くの農民が食べるために、離農離郷せざるを得なかったのだ。

 17歳の時、5歳年長の慶尚南道昌寧郡の青年申寛石さんと結婚。しばらくして、2人はあまりの生活苦から当時、村中に流れていた「日本に行けば何でもあるし、暮らしやすい」という噂を信じて、日本へ。関釜連絡船に乗って下関に上陸後、夫は九州の飯塚炭坑、岡山のトンネル工事など重労働の現場を転々と渡り歩いた。「炭坑の仕事の辛さは、今の人たちにはとても想像できるものではない。百姓や土方に比べると天国と地獄ほどの差があった」と黄さん。夫の奴隷のような苦役。妻にもまた厳しい異国暮らしが待っていた。

 「村できいた噂は大嘘だった。山奥で朝鮮人にまともな家を貸してくれる日本人など誰もいない。山の斜面にしがみつくように立つ掘立小屋のような納屋で暮らしたことがあった。屋根も壁も、板を打ち付けただけで、夜寝ているとカヤの上に天井のヘビがドサッと落ちて来て、生きた心地がしなかった」

 とても人の住む所とはいえない山の暮らしに見切りをつけ、やがて京都、広島へと居を移した。

 解放直前の8月11日。広島に原爆が投下されて4日目、夫婦は北広島に入った。爆心地から遠く離れていたとはいえ、未曾有の被害による混乱が続いていた頃だ。「故郷の知り合いを頼って来たのですが、水道もなく、ここもまた酷い所。ぬかるみの上に板をさし渡したのが台所だ。粗末な屋根で、雨がふれば長靴をはかないといられないほどだった」。

 2人は懸命に働いた。古鉄の商売も段々軌道に乗っていった。しかし、その頃から夫はひんぱんにどこかに出かけるようになった。昼夜の区別なく商売を放りだして外出するようになった夫に最初は不信の目を向けたこともあった。

 「せっかくどん底から抜け出せると思っていたのに、今度は何を、と思いました。でも、やがて朝鮮学校の開校の準備に奔走していると知って、あきらめるようになった。日本の植民地時代、学びたくても学べなかった夫の悔しさを誰よりも分かっていたのは私でしたから。夫は学校を建て、日本に奪われた民族の魂を取り戻したいと一心不乱でした」

 1945年の暮れには、広島県内全域の36ヵ所に国語講習所が開設された。これらが小学校、初等学校、初級学校と改称、次第に学校らしく変貌を遂げていった。申さんは市内にあった朝鮮学校の建設委員会の委員長として、その後は学校教育会副会長として終生、民族学校のために情熱のすべてを捧げた。資金集めに奔走しながらの連日の勤労奉仕。さらに「朝鮮学校閉鎖令」など相次ぐ弾圧への抗議デモ、集会への参加…。「とにかく一度出かければ家に帰るのを忘れてしまう人だった」と亡き夫を偲ぶ。

 そうこうするうちに黄さんも女性同盟広島・西支部結成の準備に巻き込まれていった。そして、56年、同支部委員長に就任。82年に引退するまで、4人の子を育てながら第一線で活動してきた。その仕事ぶりについて女性同盟広島県本部李京順委員長が語る。

 「顧問は気性の、まっすぐな人。ぐずぐずが大嫌い。同胞の家を訪ね、ねんごろにコミュニケーションをとっていた。来なくてもいい、という難しい同胞の家も、ひんぱんに通い、心を通わせた。いまの活動家たちが一番学ばなくてはいけないものを身につけていた。現役を退いた後も、いつも若い人を気にかけてくれる。私たちが忙しくて気づかないことをそっとカバーしてくれます」

 夫は16年前に先立ち、長女は祖国の新義州、他の子供たちも離れて暮らす。1人暮らしを支えるものは、「祖国のために死ぬまで役立ちたい」という気持ちだ。1世の女性の会である「無窮花の会」の責任者として、学習会やビデオ観賞、時には旅行をしたり、張り合いのある日々を過ごす。

 ただ1つ心残りなのは、「分断以来初めて実現した南北首脳会談を苦楽を分かち合った夫と見ることができなかったことだ」と胸の内を明かしてくれた。

 祖国の統一を願いながら志半ばで逝った夫に、金正日将軍と金大中大統領の劇的な握手を見せたかったと何度も涙をぬぐった。夢のようなニュースに接して、どんなに苦しい時でも、夫と力を合わせて乗り越えてきた日々が蘇り、黄さんのまぶたをぬらす。それは祖国と民族と共に歩みつづけてきた1人の朝鮮女性の美しい人生の証でもあった。(朴日粉記者)

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