近代朝鮮の開拓者/文化人(14)
張俊河(チャン・ジュナ)
張俊河(1918〜75年)牧師の家系として平安北道義州で生まれる。日帝の学徒兵として動員されるが脱出。「臨時政府」の金九の秘書となる。解放後、雑誌「思想界」の主幹として反独裁、民主、統一のため闘う。75年怪死。 |
民族・統一めざす「思想界」の主幹/在野民主陣営の「大統領」 かつて南に軍事独裁政権が暴威をふるっていた頃、それに対抗して民主主義と自由、祖国統一を求めて戦う広範な知識人、学生たちから広く読まれた雑誌があった。名は「思想界」で、その主幹兼編集長をしていたのが張俊河であった。それ故に、反動らの憎悪心は彼に集中することになる。 張俊河は1918年、平安北道義州で生まれた。牧師の父からキリスト教の倫理を学んだ彼は、日帝が滅ぶ直前に、学徒兵として動員され、中国に派遣されるや、日本軍隊から脱出し、中国各地をさまよった後、重慶に移っていた「臨時政府」の幹部・金九の秘書となる。また「韓国光復軍」にも参加し、「燈火(」洫V)」などの雑誌を発行する。 そんな彼であったから、53年3月、朝鮮戦争の最中でも「自由」と「民権」のスローガンを掲げて総合雑誌「思想界」の創刊に踏み切るのである。 そして「思想界」は、反独裁、民主、統一の旗となり、世論から孤立する朴正煕の「維新体制」との対立を深めていったのである。 朴正煕は「維新体制」維持のため「緊急措置」を布告し、在野の民主主義陣営の「大統領」ともいわれ、かつ光復軍の大尉であった張俊河と、過去、抗日遊撃隊を弾圧するため日本軍の中尉をしていた朴正煕との厳しい対決が展開されるのだ。 朴正煕は、急速に発行部数を増やす「思想界」に対して、財務査察、地方の書店に対する恫喝(どうかつ)、「国家元首冒とく罪」など、あらゆる手口を使って弾圧を強化する。 思想は健全な民主主義(つまり非社会主義)、行動力と組織力は「革命的」であった彼を、独裁権力は目の上の瘤(こぶ)として扱い、七五年の怪死にいたるまで9回も拘束した。 67年の国会議員選挙で、獄中立候補し見事当選した張俊河は75年の初め、祖国解放30年を期して強力に民主回復のための汎民主勢力の団結を推進し、かつ、これを阻害する「維新体制」に対し全面対決する方針をかため、全国のリーダー的な民主人士と団結し、果敢に闘争の先頭に立っていた。 しかし、8月18日の夕刊は、「張俊河氏、登山中に墜落死」と伝えた。彼の体にはかすり傷一つなく、「後頭部に直径5センチの陷(かん)没が見られた」という。 |