春・夏・秋・冬

 半世紀ぶりに肉親たちと再開した南北の離散家族たち。その涙する姿を南の各新聞は、「ソウルも泣き平壌も泣いた」などと表した

▼彼らの対面を見た瞬間、感激や希望など、様々な思いが南北、そして在日の同胞の胸を去来したことだろう。肉親、兄弟と生き別れた彼らの境遇を思う時、どうしても日本の植民地支配にたどりつく。南北分断の発端は一体、どこにあるのか

▼軍事境界線が設定された朝鮮半島を横切る38度線というのは、歴史をさかのぼるともともと、大日本帝国が持ちだしたものだ。1904年の日露戦争勃発に先立ち、日本は38度線を境に、朝鮮の勢力圏を分けあうことをロシアに提起した

▼また、敗戦の年の45年5月には、日本は米ソとの決戦に備えて、38度線を境界として、北側を関東軍、南側を朝鮮軍(朝鮮駐在の日本軍)の作戦指揮下に置いた。そして日本の無条件降伏を要求した「ポツダム宣言」(7月26日)を日本が、「天皇制の護持」のため黙殺(28日)した結果、広島に原爆が投下され、8月8日にソ連が対日参戦した

▼戦後、米ソはこの38度線を境に朝鮮半島に軍事展開した。日本軍の武装解除を第1の任務としたものだったが、米国の朝鮮現代史家・ブルース・カミングスによれば、この分断線は米軍の2人の軍人によって、わずか30分で決められた

▼朝・日国交正常化交渉で、日本側はこれまでと同様に過去を反省しようとしなかった。歴史から逃げまどう日本に対して、分断の苦しみを味わってきたウリ民族はこれからも厳しい目を向けていく必要がある。(舜)

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