10余年のウトロ訴訟

トンネ存続かけ最後まで

「これからが正念場」 12月にイベント


 解放前から続く同胞トンネ(むら、まち、コミュニティー)の存続をかけ、10年以上もの間、争われていた京都・宇治市のウトロ訴訟が「住民全員敗訴=立ち退き判決の確定」という結末を迎えようとしている。

  今後、いつ土地明け渡しの強制執行が行われるか分からない状況のもと、同胞たちはコミュニティーを守る解決策として「ウトロまちづくりプラン」をまとめた。12日、南のオーケストラや合唱団も応援にかけつけて京都市アバンティホールで開かれるイベント「ウトロまちづくりの集い―ウトロのまち きのう・きょう・あした」で発表し、今後、宇治市をはじめとした行政との交渉に入る。トンネを守るためのウトロのたたかいは、新たな局面を迎えた。

日本の戦争犯罪から派生
国際的にも高まる支援の声

 6月27日、ウトロ訴訟の3世帯3人分の控訴審判決が大阪高裁であった。妹尾圭策裁判長は、立ち退きを命じた1審判決を支持し、住民側の控訴を棄却。6つの控訴審はすべて住民敗訴に終わった。「居住権」確保を締約国に求めた国際人権規約・社会権規約をもとに「代替地を設けない強制立ち退きは条項に違反する」などと主張した住民側の訴えは退けられた。

 これで68世帯の約半数の敗訴が確定。上告中の残り半数も、これまでの経過から判断すると、年内にも最高裁での棄却決定で敗訴が確定すると思われる。

 判決後、ウトロ訴訟弁護団は「戦後補償を抜きにして、問題を解決することは不可能に思われる」とコメント。ウトロ町内会の金教一会長(61)は「強制退去には応じない。人権問題として、国連へもアピールしていく」と述べた。

 国や自治体はこの間、「民間の争い」と見て見ぬふりをしてきたが、そもそもウトロ問題は、植民地朝鮮から労働力を強制連行し、敗戦後は補償もせず放置してきた日本政府に責任があり、戦後補償の一環として解決されるべき問題である。

まちづくりプランを提示
「私の家よりみんなのまちを」

 この10余年間、国内はもちろん、国際的にもウトロ同胞を支持する世論は高まった。国や自治体が何の解決策も取らずに住民らが追い出されて路頭に迷う事態になれば、内外の非難は免れないだろうし、それ以前の問題として強制退去は、到底許されるものではない。

 住民、支援者らは新たな解決の道を求めて、自治体に提示する「まちづくりプラン」を構想。住民集会を重ねて合意、プランの基本方針をまとめた。

 プランは、土地を3分割し、資金のある人は土地を購入し、ほかの2区域に公営住宅やコミュニティーセンターを建設するというもので、いま住んでいる家を壊して更地にすることが前提となる。つまり、住民らは「自分の家」より「自分たちのまち」を選び、団結したのだ。

 基本方針は、@高齢者に優しいバリアフリーのまちAコミュニティーを壊さないまちB安全で災害に強いまちC開かれたまちDチャンゴの聞こえるまち(民族文化を大切にする)――の5項目である。

 ウトロ訴訟を支えてきた日本市民らによる「ウトロを守る会」(http://www02.so−net.ne.jp/~utoro/)事務局の吉田泰夫さんは、「敗訴はしたが、10年以上におよぶ裁判闘争の中で、住民らの団結、そして地域への思いは強まった。これからが正念場だ。ウトロの新しいまち作りは住民の利害だけでは進まないだろう。『地域の中のウトロ』をより意義あるものとして周辺住民に示し、理解を得ない限り、行政の重い腰を上げられない。住民にとって『居心地のいい在日の町』であり続けるとともに、より広い地域の市民にとっても『地域の中で必要な町』にしなくてはならない」と語る。

 今後、プラン実施へ自治体との交渉を中心に、各地でのまちづくりの経験から学んだり、国連への訴え、周辺住民の理解を得るための活動などを幅広く行っていく予定だ。(韓東賢記者)

ウトロ訴訟とは――強制連行の飯場

 ウトロ地区というのは、京都府宇治市伊勢田町ウトロ51番地のこと。ここには解放前の1941年、大陸侵略を進めていた日本政府や京都府、国策企業が計画した軍用飛行場建設の飯場が作られ、工事のために連れてこられた朝鮮人労働者1300人が住むようになった。現在、在日同胞約70世帯、260人がこの地に密集して暮らしている。

 解放後、ウトロ地区の土地(約2万平方メートル)の払い下げを受けた「日産車体」は87年、この土地を、住民の意思を無視し、住民に知らせることなく不動産会社「西日本殖産」(大阪市)に転売した。西日本殖産は88年末、突如住民らに立ち退きを要求。住民らがそれに屈しないと見るや、同地に暮らす在日同胞68世帯69人に対して立ち退きを求めて訴訟を起こした。これが一連のウトロ訴訟だ。

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