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朝鮮半島なんでも初めて
口径2・27メートル 巨大な奉徳寺の鐘
冶金工芸水準の高さ示す 南北朝時代に日本にも渡来 仏教の伝来と共に大きく発展した朝鮮半島の冶金工芸。その水準の高さを示すものとして、朝鮮鐘がある。 この鐘の製造は、百済・新羅時代に始まった。宝相草文・唐草文などが帯状に施され、また飛天像が描かれた。高麗時代になると如来菩薩、朝鮮時代には菩薩立像だけになったりした。直線かつ縦横に簡単な装飾を施した日本鐘とは、明らかに細工、水準は異なる。 そのなかでも有名なのが、慶尚北道慶州市にある奉徳寺の鐘である。 高さ3・33メートル、口径2・27メートルの巨大なもので、成分は銅86%、錫13%、そして亜鉛、鉄、金銀、アンチモニーなどを含んでいる。 奉徳寺は738年、孝成王が父聖徳王の冥福を祈るために建立した寺である。その時に、銅12万斤(1斤600グラム)を投じて鐘の製造にも着手された。 しかし、孝成王は在位わずか5年で死去。後を弟の景徳王が継いだが完成せず、その子の恵恭王の時代、771年にようやく出来上がった。 鐘の完成までの道程は、大変厳しかったという。景徳王の時は、溶銅を流し込んだ瞬間に爆発が起きて鐘は真2つに割れてしまう事故に見舞われた。 恵恭王の時代になって、ようやく2度目の鋳造に成功したが、いざ鐘をついてみると音が出なかった。 たび重なる失敗に、仏の怒りに触れたのではと思った当事者たちは、その怒りを解くために赤子を熔炉の中に投げ込んだという逸話が伝えられている。 こうして鐘は出来上がり、「聖徳大王神鐘」と命名された。その音は神妙にして美しく、余韻は10里、4キロ内外(朝鮮半島では一里は四百b)まで聞こえた。 民衆の耳にその音色は「エミレー」、「エミレー」(母さん、母さん)と泣き叫ぶ赤子の声に聞こえたという。そして後世の人たちは、この鐘を「神鐘」と呼ばず、「エミレの鐘」と呼んだ。 支配者たちの前で無力であった民衆が、現実の嘆きと悲しみをこの鐘の音に託して、自ら慰め癒していた語らい草から生まれた逸話だといわれている。 朝鮮鐘は南北朝時代に日本にも伝えられ、現在四十数個が確認されている。 朝鮮半島から直接、日本に持ち込まれた最古のものが福井県常宮神社に、また高麗時代に作られた少し小型の高麗鐘が岡山県の観音院などに残っているという。 |