近代朝鮮の開拓者/(10

高裕燮(コ・ユソプ)


 
人・ 物・ 紹・ 介

 高裕燮(1905〜1944年)仁川の米穀商の長男として出生。25年、京城帝国大学法文学部哲学科で美学を専攻。同大学助手を経て三三年、開城府立博物館長に就任。全国の塔婆の研究をはじめ多方面の美術史研究の業績を残す。

美術史学の基礎固める/体系化に数多くの論考発表

 わが国において、近代的な美学・美術史という学問は、たいへん新しく、長い伝統をもっていない。この学問の基礎を固め、その水源地となった人が高裕燮である。

  彼は1905年2月2日、仁川で米穀商を営む家の長男として生まれた。豊かな家で、幸福な幼少期を送れるはずであったが、父が他の女性を家に引き入れ、高裕燮の生母である蔡婦人を追い出すことによって、父母の愛情から遠い内向的な性格となっていったようである。

   その内に秘められたエネルギーは、3・1運動の時に噴出した。「独立万歳」を叫ぶデモ隊にまじり行進したことによって、日本の警察に何日も拘束されてしまう。普段はおとなしい、絵画を好む学生であったにもかかわらず。

 25年、普成中学を卒業し、新しく開校したばかりの京城帝国大学法文学部哲学科に進学し、美学と美術史を専攻した。京城帝国大の歴史を通じて美学専攻者は、彼ともう1人の日本人だけであったといわれる。

 したがって美学の上野、東洋美術史の田中、考古学の藤田などの教授らから、好意に満ちた親切な指導を受けて勉強することがでた。29年、「芸術的活動の本質と意義」という卒論を執筆し、卒業。翌30年には、哲学科の助手に任命された(33年まで)。

 この期間が、彼の朝鮮美術史研究の基礎を固める時期となった。とくに、この時、各地に放置されている塔婆(とうば)の体系的な研究に取り組んだ。各地で写した塔婆の写真展を行ったこともある。

 33年、開城府立博物館長として赴任した後から死去するまでの11年間、彼の朝鮮美術史研究は豊かな開花を見せるのである。この期間、彼は開城をはじめとして全国の遺跡を踏査し、絵画史、彫刻史、工芸史、建築史に関する多くの論文を書き上げた。

 歴史関係の権威ある学会・震檀学会の発起人となり、36年からは週に1度、梨花女子専門学校と延禧専門学校で美術史の講義を行い、また日本に留学中の黄寿永、秦弘燮、崔淳雨など後にわが国の美術史学会の核心となる人々にも大きな影響を与えた。

 しかし、体系的な「朝鮮美術史」の執筆出版のため、多様な関連論文の執筆を行いながら、ついに44年、肝硬変で死去する。40歳であった。

 解放後、これらの弟子たちが遺稿を集め、「松都の古墳」、「朝鮮塔婆の研究」、「朝鮮美術文学史論叢」、「朝鮮美術史と美学論考」などを出版している。わが国美術史の深化のために、彼の論考は今後も読みつがれるであろう。(金哲央、朝鮮大学校講師)

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